ドゥニャーニョ・モガマモゴ 4
(3のつづき)
僕は自分がした非を悟り、改めて単語をツギハギしたギリシャ語で、ギリシャ語、わかりません、英語で、聞いてもいいですか?とひと言謝ってから訊いてみた。そうだ、それでいいのだ、と何度か大きく頷いて、じいさんは道を丁寧に教えてくれた。
怒られはしたものの、僕はこのじいさんにとても爽やかなものを感じた。ギリシャにいてギリシャ人に話しかければ、ギリシャ語を使うのは考えれば当たり前だ。ギリシャ語ができなければ最初のひと言、英語で訊いてもいい?ぐらいはギリシャ語で言うべきだっただろう。それを無視して当然のように英語で話しかけたことはじいさんの誇りを傷つけた。誇りを傷つけられたじいさんは、なってねえじゃねえかこのやろう、と怒った。それだけの話だ。
見知らぬ外国人に突然英語で話しかけられて、やっぱり英語は世界共通語だからね仕方ないねごめんね英語あんまり上手じゃなくって、なんてギリシャのじいさんは決して言わない。ギリシャにいるんならギリシャ語しゃべれギリシャ人なめんじゃねえぞこのすっとこどっこいが!とこう言う。
すっとこどっこいと言ったかどうかは定かでないが、そういうじいさんの矜持が、僕にはとても好ましいものに思えたのだ。
じいさんはきっとギリシャのことが大好きなんだろうと思いながら自転車を走らせた。
マジョリティでいることは、マイノリティに対して鈍感になることだ。マイノリティはマジョリティが考える以上に敏感で繊細なものだ。それはいくつかの国でマイノリティになった経験から断言できる。マジョリティの鈍感さに圧されてマイノリティが小さくなってしまうこともよくあることだ。
だがマイノリティであることは単に「数が少ない方」にいるだけのことであって、悪いことではないしましてや罪なんかでもない。マジョリティを強いてくる鈍感連中には、マイノリティなめんじゃねえぞこのやろう、と堂々と言ってやったらいい。ギリシャのじいさんが僕に対して言ったように。
もうひとつ補足すると、アテネの町中でパトラへの道順を訊いたのは、言ってみれば新宿の道ばたで名古屋までの行き方を尋ねるようなものだった。正確な道順を簡潔に教えてくれたじいさんはやはりただ者ではなかったのだろう、とイタリアへのフェリーに乗ってから考えた。
(おわり)