写真に関しての覚え書き
この正月休みに、今まで撮影してきた写真を大々的に整理しました。
ウェブサイトを根本から作り替える際に、過去のフィルムを一斉にデジタル化する必要に迫られたのです。
カメラを持ったばかりの頃のフィルムから最近までの写真が全て順不同に詰まった箱をひっくり返して、写真の海の中を泳いでいるような1週間を、年始早々過ごしていました。
昨年引っ越しをした際にも感じたことですが、長らく放置していたものを整理することは実際にやってみると想像以上にエネルギーを必要とするもので、まずどこから手をつけようかと考えるだけでも頭からケムリが出てきそうな状況でした。
それでも過去の写真を遡って一気に目を通す、というのは非常におもしろい経験で、一枚の写真を目にしたことがきっかけで、心の奥底に沈殿していたような記憶が次々に蘇る、ということが連続して起こります。
すべての写真はドキュメンタリーだ、という言葉がありますね。
写真というものは、その人間がその瞬間目の前にしていた光景の記録であり、同時に写真に写っていない、フレームの外側の記憶でもあります。
このフレームの外側の記憶というのはなかなか言語化して伝えるにむずかしい部分ではあると思うのですが、撮ってる本人にとっては意外と大事な部分だったりします。
あ、このときこんなこと考えていたんだよなとか、この写真撮ってる自分のうしろでは大勢の人が集まって見物してたな、とか、とうの昔に過ぎ去ってしまってふだんは意識の上に上がってくることのないこの種の記憶が、一枚の写真を見ることで続々とわき上がってきます。
そういった記憶や、もしくはそれにひと続きで繋がっているそのとき持った気持ち、感情なんかは、写真を見る側の人にとってはまったくとらえどころのない部分だったりするのでしょうが、それが伝わらないわけでは決してなく、実はそういった説明不可能な記憶や感情を、説明不可能なまま写真から受け取ってたりもします。
そしてそういった説明不可能なものは言語化できない、もしくは非常にしにくいので、それでも人が説明しようとすると、「なんとなく」みたいな言葉になるわけです。
「きれいなんだけど、なんとなく怖い」「よくわかんない。でもなんとなく好き」
写真を見た人がよく口にするそんな言葉の、なんとなく以降は、言語化できないものを受け取った証と、ぼくは受け止めています。
そして人の心の奥深くに爪痕を残して行くような写真というのは、どんな衝撃スクープや超絶技法のライティングなどよりも、こういった「説明できないよくわからないもの」がはるかに雄弁に語っているものだったりします。
そんなことを、整理作業中に考えさせられたわけですが、こんな考え事をしながらしている整理がスムーズに進むわけがない、と我ながら思ったりもしていた、そんな正月です。