カロール再び 5
インドに着いてから儀式や催し物が続いています。
昨夜はダブルヘッダー。
ひとつ目は近所の寺でガルバという踊りと歌。
マタジという名の女神の誕生日を祝うものだということです。
延々と繰り返される独特なリズムの大合唱を聞いているとあやうく意識をどこか遠くに持って行かれそうになりました。
実際踊りながらトランスに入る女性もいて。
夕食をはさみふたつ目は、友人のバーラット家の庭で開催されたなんと名付けたらいいのかわからない神様劇団。
儀式というほど重いものではなく、司会は僧侶ではなく歌手のおじさん。歌と踊りと、神話を題材にした寸劇。歌手のおじさんは座長といったところなんでしょう。
座長はずっと歌いっぱなし。そしてたくさんの神様役が交代で出てきます。
エンターテイメントなんですが、あくまでヒンドゥ。最初から最後までヒンドゥ。
延々と演り続け気づけば5時間。
到着してから毎日コテコテの『インド的なるもの』に触れ続け、早くも満腹感が込み上げてきてます。
コテコテなんだよなホントに。
この神様劇、言葉がわからなくても非常に見応えがあって楽しめるのですが、ヒンドゥとして生まれ生きている友人たちの熱狂的な感覚は僕には永遠に理解できないものでしょう。
頭では理解できても心の奥底の部分では理解できない。
僕はヒンドゥでないし、特定の宗教を信仰していると言えるほど深く知っているわけではないので当たり前な話ではありますが。
だいたい生まれた瞬間から信仰の中で生きていく、そういう感覚がまずわからない。
これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか
信じるものがあったとしても、信じないそぶり
という古い歌詩を思い出しましたが、そういった自分が信じれるものを探す葛藤や逡巡よりも遥か手前に、ヒンドゥはヒンドゥとして信じるべきものの中に生まれ落ちる。
これは僕だけでなく圧倒的多数の日本人にはなかなかに理解しがたい感覚なのではないでしょうか。
功罪善悪苦楽の価値判断をまったく抜きにして、そういう「違い」を目の前にすることで、日本の常識や観念に固まった部分がガラガラとぶち壊される。
その実感が実に気持ちがいいのです。