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(エリトリアで借金を 13 つづき)
サウジはビザに厳しかったが、入国審査もきびしかった。
なぜだか理由はいまだに不明だが、審査の列で僕の前に並んでいたおじさんが、脇に大きなマクラを抱えていた。長い船旅ではマクラは必需品、なのかもしれないが、かわいらしいことこのうえない。イミグレーションの係官はそれに目をつけて、まずは中に何も隠していないか、パンパン叩いていたのだが、あげくの果てにはナイフを持ち出し、真ん中から大きく切り裂いてしまった。羽毛を外に飛び散らかしながら中に手を突っ込み、当たり前だがそこには羽毛しかないことを確認し、はいオッケー、とおじさんに返す。受け取ったおじさんも僕も目が点になっていた。
36時間の期限付きで、ジッダに入る。まずはエジプト行きの船のチケットを買いに行く。船の出発が3日後、なんて言われたらまたビザの問題が出てくるし、200ドル、なんて値段だったらまたしてもお金が足りなくなる。まだまだ気は抜けないのだ。
港の近くの事務所で聞いてみるとスエズまで80ドル、幸いなことに今夜出発するという。チケットを買い、ジッダの街をぶらぶらしたあと港に戻り、船に乗り込む。ここまで来れば焦ってばかりいた僕の心にもだいぶ余裕が生まれて来て、これならカイロによってピラミッドだけでも見て行こうかと、調子の良いことを考え始める。
二泊三日かかってスエズへ到着。やはりどうしても、とカイロに行くことにする。ピラミッドを堪能し、そろそろヤバい、とイスラエルのテルアビブ行きの長距離バスに乗る。バスは夜を徹して走り続け、翌日の昼頃にはテルアビブのターミナルで乗客を降ろした。
初めて触れるイスラエルの空気を吸いながら、財布の中を見る。カイロによっていたせいで、またしても10ドルぐらいになっている。でも、大丈夫。シティ・バンクの人は世界中にATMがありますよ、って言っていたのだし。
そのまま近くにATMを探し、カードを突っ込む。ザッと機械の音がして、初めて目にするシュケルの札が数枚、取出し口から現れる。教えられた安宿に歩いて行き、荷物を下ろし、近くの酒屋にビールを買いにいく。1ケース買って宿に戻り、カウンターにドスンと載せる。一本だけ取出して、あとは勝手に飲んでよ、と受付のおにいさんに渡す。
貧乏旅行者が集まる安宿で、それは珍しい光景だったのだろう。ロビーにいた客たちが、おれもおれもと、またたく間に12本のビールは売り切れた。
受付のおにいさんは自分でも一本開けながら、なんか良いことでもあったのか?とそのわけを知りたがっていた。いや、深い理由はないけれど、と答えたものの、ビールを持った人たちが一斉に、チアーズ!とうれしそうに言ったとき、ひとつだけ心の中でつけ足した。
エリトリアに。
(おわり)
A:Massawa B:Jiddah C:Suez D:Cairo E:Tel Aviv
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(エリトリアで借金を 12 つづき)
見覚えのある道をバスが走る。
朝アスマラを出発した僕は、まだ日があるうちにマサオアに到着した。
1週間ぶりの港を港湾事務所に向かって歩く。事務所の人たちは僕のことを覚えていたらしく、入ったとたんに挨拶ぬきで、ビザもらったか?と聞いて来た。
僕も挨拶ぬきでパスポートを開いてみせ、ほら、とサウジのビザのページを見せると、なぜだかそれをみんなして回し見して、顔をほころばせた。
最後にボスがそれを見て、相変わらず冷静に船のチケットを作り始める。チケットはわら半紙のようなペラペラの一枚の紙だ。僕が代金を手渡すと、ボスはそれに勢い良く最後のスタンプをドン、と押した。
その夜はマサオアの半壊した宿に泊まり、翌朝港に戻る。漁船をちょっと大きくしたような、なんとも心許ない船が一隻停まっていた。 乗り込むとちょうどイスラムのお祈りの時間が始まったようで、狭いデッキに数十人の男たちがそれぞれ小さなカーペットを敷き、メッカに向かって礼拝している。アッラアアー、アクバアール、という祈りの声は船のスピーカーから大音響で流れていて、普通の会話も覚束ない。他に何もすることなく、ぼんやりしながら出発を待つ。
心許ないながらも船が出発し、翡翠色をした波の上を、すべるようにとはいかないが、ノロノロと進む。エリトリアの黄色い陸が少しずつ小さくなり、水平線に消えていく。太陽はこれ以上ないほど強く照りつけて、船上に濃い影を作る。
しばらくして空腹を感じ、船の小さな売店に行ってみて愕然とした。ここでは米ドルはもちろん、エリトリアの通貨であるナクファでさえも使えないというのだ。食べ物欲しかったらサウジのリヤルを持って来な、というのだが、これからサウジに行く僕が、リヤルを持っているわけもない。せっかく苦労してお金を借り、わざわざ船中のためにと少々のナクファに替えておいたのに。ジッダまで二泊三日の船旅で、思わぬ理由で絶食を覚悟した。
腹減ったなあ、とふらふら船内を歩いていた僕に、乗客のひとりが声をかけた。見るとそこには床にカーペットを敷き、ピクニックのように食べ物を広げている一団がいた。サウジの人たちだったように記憶しているのだが、その人たちは僕が空きっ腹なのを見抜いたのだろうか、陽気に、こっちに来て一緒に食べないか、と誘ってくれた。
喜んで、と彼らが持ち込んだ食事を遠慮もなくいただく。うまい。ありがたいことにこれも食え、あれも食えと、もう満腹、というところまで次々とごちそうになる。あとで気がついたのだが、食事時になると乗客たちは船のいたるところでこうしたピクニック状態になっていた。それに気づき味をしめた僕は、時間になると船の上を散歩する。必ず、どこかしらのピクニックから声がかかり、腹一杯の食事にありつける。
一日五回、問答無用の大爆音で流れるコーランの響きには閉口したが、サウジの食事のおいしさと彼らの優しさは僕の粗末な旅を明るく彩ってくれた。
時折イルカに並走されながら、船はジッダの港に入る。
(14につづく)
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エリトリアで借金を 6
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(エリトリアで借金を 11 つづき)
15分も話し続けただろうか。その間、その人は僕の話を静かに聞き続けてくれた。
そして僕がすべてを話し終えたとき、その人は考える素振りも見せず、いいよ、いくら必要なの?と即座に答えてくれた。
あまりにも簡単にそう言ってくれたので、今度は僕のほうが驚いて、えええ?本当にいいんですか?と聞き返してしまった。
その人は静かに頷いてこう言った。僕も若い頃には今の君のように旅をして、年上の人にたくさん世話になった。だから僕は今、君にお金を貸そう。そして君は今後困っている人に出会ったら、このことを思い出して助けてあげなさい。
で、いくら必要なの?ともういちど聞かれた僕はちょっと迷い、100ドルあればイスラエルまで行けると思うんです、とさらに小さくなって言う。たぶん、大丈夫です、と言った僕の自信のなさを感じとったのだろうか、その人は、じゃあ念のため、と言い100ドル札を2枚手渡してくれた。
そのとき僕は二十歳を過ぎたぐらいだったが、後にも先にもこのときほど紙幣を重く感じたことはない。
掌の2枚を握りしめて、その人の名刺を受け取った。名刺には秘境を専門にツアーを組む旅行会社の名前があった。半年ぐらいしたら帰国して必ず返しに行きます、その人に頭を下げた。
いいよいつでも、それより気をつけて行きなさい、とその人は近所を散歩するような気軽な感じで僕を門まで見送ってくれた。心の中でもういちど、必ず返しに行きます、と繰り返し、ホテルを後にした。
クモの糸はちぎれなかった。これでまた前に進める。そのまま宿に戻り、荷物をまとめる。明日の朝、マサオアに行こう。港のボスは明後日には船が出ると言っていた。いまならギリギリ間に合うはずだ。
(13につづく)
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(エリトリアで借金を 10 つづき)
即座に電話を切り、そのホテルまでの行き方をおじさんに教えてもらう。
おじさんは僕の状況が飲み込めたのか、もうオドオドするのをやめ、むしろ張り切って詳しい地図まで描いてくれた。
地図の通りに40分ほど歩く。教えられた上り坂の向こうに、4階建ての瀟洒な白いホテルが見える。門まで近付いて行ってよくよく見てみると、その2階の窓から、確かに日本人らしき女性が顔を出して外を眺めている。
躊躇なく声をかける。こんにちは、日本の方ですか?ああ、やっぱりそうですか。あの、お金貸してもらえませんか?
またしても狂人扱いされても仕方のない状況だ。気の毒な女性は驚いた顔を見せながらそれでも、ロビーで待っていて下さい、と2階から降りて来てくれた。
一体、どうしたんですか?と聞く女性に、恥ずかしながらもざっと事のあらましを説明した。少し無言で考えたあと、私ではどうにもできないからツアコンのひとを呼んできます、と言い残し、女性は2階へ戻って行った。
それからしばらくロビーには誰も現れない。壁にかけられた時計の音がとても大きく聴こえる。登りかけたクモの糸がちぎれそうになっているのを感じる。この糸がちぎれて落ちる底は、やはりカンダタ同様、地獄なのか。お釈迦様はそれをご覧になられて悲しげな顔をされるのか。
不安ばかりが大きくなる。やはり頭のおかしい人と思われて、完全に引かれてしまったのだろうか。今頃ツアコンの人に、変な日本人にからまれちゃって困ってます、なんて助けを求めに行っているのではないのだろうか。
悶々と苛まれること15分、ロビーで小さくなっていた僕に、どうしたんですか?と日本語の声がした。
顔を上げると、30代前半らしき日本人の男の人が立っている。僕がツアコンの者ですが、そういってその人は目の前のソファにふわりと座った。
僕はここに来るまでの道のりと、自分の置かれた状況をその人に話し始めた。
(12につづく)
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(エリトリアで借金を 9 つづき)
翌朝、日の出とともに目が覚める。
この時期のアスマラは毎日雲ひとつない快晴だ。オレンジをひとつだけ食べ、良いアイデアも浮かばないまま街に出る。
こうなったら数打ちゃ当たるかも、とまたしてもヨーロッパからの観光客に手当り次第に声をかけてみる。当然だがけんもほろろ、芳しい答えは得られない。もしかしたら、とエリトリア人にも声をかけてみる。お金貸してくれたら、僕ヨーロッパに一度行って、お金引き出してまた戻ってきますから、と。急ぎ足の旅でエチオピアもエリトリアもろくろく観ていないので、お金持ってまた来るのも良いかな、なんてのんきなことをこのときは本気で考えていた。
何連敗したのだろうか、いつの間にか太陽が西に傾き始めたころ、あるスイス人のカップルに声をかけた。
やはり当然のことながら、僕たちは貸せないな、と断られてしまったのだけれど、去り際に、そういえばさっき日本人らしいツアー客を見かけたよ、と気になるひと言を残して行った。
日本人のツアー客?独立したばかりのこの国で?
半信半疑、もしかしたら韓国の建設会社の人たちのことなのかも、なんて思いながらも、この状況でのそのひと言は僕にとっては天から垂れて来たクモの糸、あたってみるしかない、と大急ぎでツアー客が泊まっていそうな大きめのホテルに飛び込んだ。
ホテルの受付係は優しそうなおじさんだった。ここに日本人のツアー泊まってる?と鼻息荒く飛び込んできた僕の勢いに不穏なものを感じたのか、泊まってません、と妙にオドオドしながらおじさんは答えた。
ここではないのだ。でもアスマラでツアー客が泊まれるような大きなホテルはそれほど多くはないはずだ。
電話帳貸して下さい、そうお願いした僕に、おじさんは変わらずオドオドしながらも即座に分厚い電話帳を持って来てくれた。ホテルの欄を開き、おじさんに、大きなホテルはどれですか、と訊ねる。
おじさんが指した電話番号を、片っ端からかけてみる。電話一回の料金がそのままオレンジ4個分だ。縮まるタイムリミットを頭の隅で気にしながらも、一軒目、二軒目、三軒目とかけ続ける。どこも、ここにはいないよ、という返事だった。財布が空になるまで電話してやれ、と人ごとのような、やけっぱちのような気持ちで回転式のダイアルを回す。
七軒目にかけたとき、受話器の向こうの人がちょっと陽気な感じで、ああ、うちに泊まっているよ、と言った。
(つづく)
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(エリトリアで借金を 8 つづき)
日がな一日、街をうろつき、観光客を見つけては声をかける。
フランス、スイス、イギリス、などなど20組ぐらいに声をかけ20連敗ほどもしただろう。いつの間にやらアスマラの一等地に立つ中国大使館の前に立っていた。
今思い返せば、血迷っているとはこういうことかと背筋が冷たくなるのだが、そのときの僕は「溺れる者はわらをもつかむ」という言葉の体現者そのものだ。遠い異国のエリトリアでは中国も日本も親戚のようなもの、アジアのお隣さん同士なんとか相談に乗ってくれるんじゃないかと、ふらふら門をくぐろうとした。
エリトリア人の門番らしき男に、何の用ですか?と止められて、かくかくしかじかでお金借りたいんだけども、と話したところ、それでなぜ中国大使館が日本人であるあなたを助けられると思うのですか?とやさしく諭された。
そう言われればその通り。返す言葉が無い。わらをもつかもうとしたのです、なんて余計なことは言わずにトボトボとその場を立ち去った。
また別の日は、僕を韓国人だと思った人が、韓国の建設会社が郊外で工事してるよ、と教えてくれた。性懲りもなく、韓国も日本もお隣同士の親戚同士、と都合の良い理屈をつけて三時間の道を歩く。着いたところはなにかしらの公共設備の建設現場。確かに韓国の会社らしくハングルの看板などがちらほら見えるのだが、働いているのはエリトリア人ばかりで韓国人は見当たらない。そのうちだんだん頭も冷静になってきて、これは中国大使館の繰り返しと確信し、情けないことこのうえないがそのまま三時間を引き返す。
そうして一日、また一日と、出口がまったく見えないままに時間だけが過ぎて行く。日々の支出は安宿とオレンジ数個のみなのだけど、それでも日に4ドルぐらいは着実にお金は減っていて、5日が経ったころには財布の中身は7ドルぐらいになっていた。
夜、重い足を引きずって宿に戻る。オレンジを2個食べて、むりやり空腹をごまかした。なにもしていないという時間が最も心が重くなるときで、困ったときの神頼み、生まれて初めて神様仏様、さらにはご先祖様にも拝んでみたりする。そんな不安を抱えながらも、一日歩き続けたせいで夜になるとちゃんと眠くなる。神様仏様ご先祖様、と呟きながらいつしかどろりとした眠りに入る。
明日、何の成果も得られなければ、空きっ腹を抱えて街角で野宿、ということは避けられない。
(10につづく)
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(エリトリアで借金を 7 つづき)
その日のうちに、来た道をそのまま戻りアスマラに帰って来た。
ハジスの家にもう一度、と思ってみたのだが、ハジスの家がどこだかわからない。ものごとうまくいかないときは全てがうまくいかないもので、ハジスが、手紙をくれ、と言って僕に手渡した住所を確認すると、P.O BOX、いわゆる郵便局の私書箱あてになっていた。
しかたないのでハジスの家に戻るのはあきらめて、最も安いと思われる宿を取る。食事はもちろんオレンジのみだ。
なにを差し置いても、まずビザを取りに行かないとならない。アスマラに戻った翌日、まずはエジプト領事館を訪れる。確かビザは14ドルとかで、ちょっとほっとしたのを憶えている。一日待って、その次はサウジのビザだ。以前から、サウジアラビアはイスラム教徒以外のビザには厳しい、と聞いていた通り、トランジットのビザしか出せないという。やはり一日待ち、痛い40ドルほどを払ってビザを受け取る。有効期限は入国後36時間。
さあ、これでビザは整った。これで十分な資金が手元にあれば、マサオアに向け再出発、ということになるのだろうが、悲しいことに手元には20ドルぐらいしか残っていない。マサオア発の船にも乗れないのだ。
とにかく、お金をどうにかしなければ。焦ってばかりの頭をむりやり整理して、どうすれば良いか考えてみる。
日本の家族に送金を頼む。これはダメだ。できたばかりの国で、送金が何日かかるかわからない。無事に届くかどうかさえ危ういし、国際電話をかけた時点で僕が数日生き延びるためのわずかなお金さえなくなってしまう。
大使館に頼る。これもダメ。エリトリアに日本大使館がない。エチオピアにはあるのだが、そこまで行くお金もない。第一、大使館がお金を貸してくれるのかどうか。
働く。例えばここで100ドル貯めるのに、一体どのくらいの時間がかかるのか。こつこつやっているうちにエリトリアのビザさえ切れてしまうだろう。
もう、こうなったら考えててもしかたない。僕は街に出て、数少ないヨーロッパからの観光客に声をかけ始めた。
どこから来たんですか?ああ、ドイツ?ぼくもこの後ドイツに行こうと思っていますよ。それで相談なんですが、お金貸してもらえませんか?ドイツに行ったときに返しますので、、、。
これでイエスと言ってくれる人がいれば、それは天使のような人物なのだろう。
(9につづく)
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(エリトリアで借金を 6 つづき)
完全に固まってしまった僕に、ボスの言葉が追い討ちをかけた。
エジプトのビザも持ってるか?
しまった。船のことばかりに執着しすぎて、大きなミスをしでかした。サウジアラビアに行くつもりは全くなかったので、ビザを持っていないのは仕方のない話だが、エジプト行きの船を探しにきたのに、エジプトのビザを持っていない。
僕の無計画なだらしなさは、目の前のことしか見えなくなるのが原因だ、と普段から思っていたのだが、実は目の前のことも見えてはいなかった。自業自得の悲しさで、誰のせいにするわけにもいかず、悔しさだけが募ってくる。答えはわかりきっていたのだが、それでも一応、ビザがないとダメなのか?と聞いてみる。ホントはビザがなくても行けるでしょう?と。
それまで落ち着き払っていたボスは、僕の国際ルールを無視した質問に、よっぽど不意をつかれたのだろう。初めてわかりやすい狼狽を見せ、いやいやそれは決まりだからと、なんとなく目の前のアジア人を哀れんだ目で見た。
考えがまとまらないまま、うわのそらでボスにお礼を言って、外に出た。目の前はエメラルドグリーンのとんでもなく美しい海だ。そんな一生に一度出会えるかどうかという景色を前にして、残念なことに僕の気持ちは重かった。
さあどうする?このままエジプトに行くのはムリだ。船もないしビザもない。密航?吉田松陰じゃあるまいし。賭けには負けた。負けたが、僕はまだ生きている。とにかく前進しなくては。
もうこの時点で、すべきことはわかっていた。アスマラに戻り、サウジとエジプトのビザを取る。ビザがいくらか知らないが、それでお金はほぼなくなるだろう。船のチケットは買えなくなるから、お金をどうにかしなければならない。マサオアに再び戻り、船に乗りジッダへ。ジッダで船を乗り換えて、スエズ。スエズに着けば、イスラエルはもう目と鼻の先だ。
そうする以外にないことは、回転してない僕の頭にも明らかだが、お金をどうにかする、という部分が最も肝心で、その肝心の部分がまったくの霧の中、どうするべきかわからない。
とにかく、一刻も早くアスマラに帰らなければ。
町の中心に戻ると来たときのバスがまだ停まっていた。気の良い運転手に不思議な顔をされながらも、そのままバスに乗り込んで、まったく同じ道のりを、今度は山を登って行く。
(8につづく)
A:Asmera B:Massawa
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(エリトリアで借金を 5 つづき)
バスで乗り合わせた人々が口を揃えて言うことには、戦争中、マサオアは最も激しい戦闘を経験した町だという。
マサオアの町に入って見れば、なるほど戦火に焼かれた場所とはこういうことか。一目で納得がいくほどに、町は荒廃というひと言に尽きる。無事な建物のほうが珍しい。多くは壁や天井に大きな穴が空いていて、真っ黒こげになっていた。この国が戦争に勝利して、独立を宣言したのが93年ということなので、それから2年は経っているのだが、戦争の傷跡はそれでもいたるところに転がっていた。
バスは町の中心で客を降ろし、僕は教えられた道を港湾事務所に駆けて行った。僕が取ったルートが正しかったかどうか、僕の賭けが勝つのか負けるのか、答えは1キロほど先の港にある。焦れる気持ちをバックパックの重さにブレーキをかけられながら、汗だくになって、あそこだよ、と指された建物のドアを開ける。
勢い良く飛び込んできたアジア人に、事務所の人たちは初め少し驚いたようだったが、船は出てるか?と聞いた僕に、さらに驚いたようだった。
きちんとした答えが返って来ないので、もう一度、エジプト行きの船はここから出てるか?と聞いてみる。一瞬の沈黙の後、返ってきた言葉は「ノー」だった。
思わず目の前が暗くなったが、出てないの?ホントに出てないの?としつこく聞く僕を、そこのボスらしき男が、落ち着きなさい、と手で制した。どうやら僕は必死になりすぎて、彼らが話す隙も与えず質問攻めにしていたようだ。
すこし気持ちを落ち着かせてボスの言うことを聞いてみると、確かにエジプト行きの船はここにはない、という。ここからは、対岸であるサウジアラビアのジッダという港に行く便しかない。エジプトに行きたければそこで船を乗り換えなさい。呆れた顔も見せずにボスはていねいに教えてくれた。
そういうことなら、もちろん行くしかない。考えている時間はないのだ。ジッダまでの便は30ドルぐらいらしい。財布を見ると、80ドル残ってる。ジッダからスエズの船はいくらぐらいか聞いてみたが、ここではわからない、それはジッダで聞きなさい、という。
わかった、行こう。船のチケットが30ドル。そうすると残り50ドル。直行便はなかったが、ジッダからスエズまでの便が30ドルとか40ドルならまだ行ける。まだ勝てる。
船が出るのはちょうど明日だ。それを逃すと次の便は1週間後。よし、買おう、と言った僕に、ボスが相変わらず落ち着きはらった声で聞いた。
サウジアラビアのビザは持ってるか?
(7につづく)
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(エリトリアで借金を 4 つづき)
バスで出会った彼らのおかげで、アスマラまでの旅はとても楽しいものになった。
アスマラでの2、3日はハジスの家に居候させてもらうことになる。ハジスは僕の置かれた状況がよく理解できないらしく、なんでそんなに急ぐんだ、もっとゆっくりしていけよ、と何度もちょっときつめの口調で言ってくれた。
ハジスの家族に囲まれた生活はとても楽しく居心地良く、僕もつい財布のことを忘れてしまいがちになるのだが、この時点で中身は100ドル弱になっていて、それが僕の気持ちを焦らせた。
後ろ髪を引かれるというのはこういうことかと思いつつ、ハジスと家族に別れを告げて、港町のマサオアに出発した。アスマラでも船のことは聞いて回ったが、やはりというか、驚くべきことに、と言うべきか、詳しい情報はさっぱり出て来ない。マサオアに向かうバスの中でもそれは同じで、お金がどうこうという以前に、エジプト行きの船なんて初めからないのかもしれない、という不安が強くなる。
ナイロビからアスマラまでの道のりは、とても高度の高い場所を走って来たようで、照りつける日差しは強いが暑くも寒くもないような天候だった。それに対してこの道は、一気に山を駆け下りるような下り坂で、港町に近づくにつれ、どんどん気温も湿気も急上昇、アフリカらしいといえばアフリカらしい。今まで暑さに慣らしていない分、体中からいっきに汗が出始める。
話はやっとここで冒頭に戻ってくる。
このうえなく切り詰めた生活をしていた僕は、バスが食事のために停まっても、アスマラの市場で買ったオレンジぐらいしか食べるものがない。炭水化物が恋しくなるが、背に腹は代えられない。一回の食事で船のチケットが買えなくなることだってあるかもしれないのだ。
バスで乗り合わせた人々は、そんな僕に、こっちへ来いよ、と自分たちの席に誘ってくれた。これがエリトリアの食い物だ、一緒に食え、と出されたものはインジェラという名の料理だった。
一見すると、巨大なクレープの生地のような黄色い物体に、野菜や肉を煮込んだシチューを包んで食べている。遠慮なく試しにひとくち食べてみると、食べたことがないような酸っぱさで、失礼な話だが、これ腐ってないか?と言いそうになった。
その質問を最初のひとくちといっしょに飲み込んで、周りのひとを見てみると、当たり前だが文句を言い出す人もなく、みなうまそうに食べている。こういうものか、と思い直してもうひとくち、さらにもうひとくちと食べてみると、最初は驚かされた味が、だんだんとクセになるようで、美味しいものに感じられてくる。独特なその酸っぱさは、生地を発酵させているかららしいのだ。
エリトリアの人々はこのインジェラが自慢のようで、どうだ、うまいだろ?と入れ替わり立ち替わり僕に訊いてくる。その度に、うん、うまいと口をモグモグさせながら答えると、それだけでみな嬉しそうにしてくれる。
そんな食事を何度か挟みながら、バスは一路マサオアに向かって行く。否応のない勝負のときに、時速60キロで近づいて行く。
(6につづく)
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