Monthly Archives: 5月, 2010

5月
26

エリトリアで借金を 5

posted on 5月 26th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 4 つづき)

バスで出会った彼らのおかげで、アスマラまでの旅はとても楽しいものになった。

アスマラでの2、3日はハジスの家に居候させてもらうことになる。ハジスは僕の置かれた状況がよく理解できないらしく、なんでそんなに急ぐんだ、もっとゆっくりしていけよ、と何度もちょっときつめの口調で言ってくれた。

ハジスの家族に囲まれた生活はとても楽しく居心地良く、僕もつい財布のことを忘れてしまいがちになるのだが、この時点で中身は100ドル弱になっていて、それが僕の気持ちを焦らせた。

後ろ髪を引かれるというのはこういうことかと思いつつ、ハジスと家族に別れを告げて、港町のマサオアに出発した。アスマラでも船のことは聞いて回ったが、やはりというか、驚くべきことに、と言うべきか、詳しい情報はさっぱり出て来ない。マサオアに向かうバスの中でもそれは同じで、お金がどうこうという以前に、エジプト行きの船なんて初めからないのかもしれない、という不安が強くなる。

ナイロビからアスマラまでの道のりは、とても高度の高い場所を走って来たようで、照りつける日差しは強いが暑くも寒くもないような天候だった。それに対してこの道は、一気に山を駆け下りるような下り坂で、港町に近づくにつれ、どんどん気温も湿気も急上昇、アフリカらしいといえばアフリカらしい。今まで暑さに慣らしていない分、体中からいっきに汗が出始める。

話はやっとここで冒頭に戻ってくる。

このうえなく切り詰めた生活をしていた僕は、バスが食事のために停まっても、アスマラの市場で買ったオレンジぐらいしか食べるものがない。炭水化物が恋しくなるが、背に腹は代えられない。一回の食事で船のチケットが買えなくなることだってあるかもしれないのだ。

バスで乗り合わせた人々は、そんな僕に、こっちへ来いよ、と自分たちの席に誘ってくれた。これがエリトリアの食い物だ、一緒に食え、と出されたものはインジェラという名の料理だった。

一見すると、巨大なクレープの生地のような黄色い物体に、野菜や肉を煮込んだシチューを包んで食べている。遠慮なく試しにひとくち食べてみると、食べたことがないような酸っぱさで、失礼な話だが、これ腐ってないか?と言いそうになった。

その質問を最初のひとくちといっしょに飲み込んで、周りのひとを見てみると、当たり前だが文句を言い出す人もなく、みなうまそうに食べている。こういうものか、と思い直してもうひとくち、さらにもうひとくちと食べてみると、最初は驚かされた味が、だんだんとクセになるようで、美味しいものに感じられてくる。独特なその酸っぱさは、生地を発酵させているかららしいのだ。

エリトリアの人々はこのインジェラが自慢のようで、どうだ、うまいだろ?と入れ替わり立ち替わり僕に訊いてくる。その度に、うん、うまいと口をモグモグさせながら答えると、それだけでみな嬉しそうにしてくれる。

そんな食事を何度か挟みながら、バスは一路マサオアに向かって行く。否応のない勝負のときに、時速60キロで近づいて行く。

につづく)

こんな記事も読まれています


エリトリアで借金を


エリトリアで借金を 2

本文を読む

5月
23

エリトリアで借金を 4

posted on 5月 23rd 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 3 つづき)

そうと決まればエリトリアのビザを取らなければならない。

申請しに行って、土日を挟んで週明けに受け取り、なんてことをやってるうちに、3日と決めていたアジスで1週間も滞在することになってしまった。

食事や宿は極限まで切り詰めて、まさに爪に灯をともすような日々を送っていたのだが、このビザというのがこういう場合にはとても厄介だ。ビザそのものにお金がかかるし、取得するために時間もかかる。確かエリトリアビザは25ドルぐらいだったと思うのだが、そのときの25ドルは僕にとって本当に身を削られるような金額だった。このとき僕は1日4ドルか5ドルぐらいで生き延びていたはずで、タイムリミットが5日分ぐらいはビザのせいで縮まったことになる。

これで船がなかったら、もうアジスアベバに戻ってくる金もなく、エリトリアで立ち往生になるのだろう。なるべくそんなことは考えないようにしながら、エリトリアの首都アスマラ行きのバスに乗る。

バスの中では、不安で重くなっていた僕を、エリトリアの人々の興味津々の大きな眼が迎えてくれた。このときの乗客はほとんど全てエリトリア人で、他の国の人間は僕だけだった。アジア人を見るのも珍しいらしく、初めはなんとなくこちらの様子を窺っていた乗客たちのひとりが、英語で話しかけて来た。ハジスという名の僕と同世代のこの若者もまたエリトリア人で、エチオピアの親戚を訪ねて行った帰り道だという。ハジスは僕に英語で話しかけ、僕が言うことを大声でバスのみんなにエリトリアの言葉で伝える。即席だがとても有能な通訳を買って出てくれた。

アスマラまではまるまる3日。やはり夜は名もわからない町で宿を取り、朝になると出発する。途中、少しの入れ替わりはあるものの、乗客の顔ぶれは出発のときからほぼ変わらず、バスの中では少しずつあたたかい一体感が生まれてくる。2日目の午後だっただろうか、ハジスが、アフリカ・ユナイトって歌、知ってるか?と訊いてきた。

ボブ・マーリーのアフリカ・ユナイト?そう訊き返すと、嬉しそうに、歌えるか?と目を輝かせている。なんとか憶えているところだけ歌ってみると、ハジスが合わせて声を乗せてくる。ハジスの大きな声がバス全体に響き渡って、ひとり、またひとりと声が合わさって、気づいたときにはバスの中は大合唱になっていた。

僕らはバビロンの外に出て  僕らの祖先の土地へ行く

どれだけ素晴らしいことだろう

神と人を前にして アフリカがひとつに戻るのは

エチオピアとエリトリアの国境付近で、周りは見渡す限り延々と広がる乾いた堅い土。黄色い地面と真っ青な空に挟まれて、人も車も滅多に見かけない地平線を、調子ハズレのアフリカ・ユナイトが鳴り響く真っ赤なバスが走って行く様は、端から見たらとても微笑ましいものだったのではないだろうか。

後ろのほうを見てみると、おばあちゃんと小さな子供たちも、教えてもらったのだか適当なのか、気持ち良さげに歌っている。きっと運転手も一緒になって歌っているだろう。

ボブ・マーリーがアフリカ・ユナイトで歌ったそのアフリカに、僕もこの瞬間、ちゃんといるのだというごく当然のことを、不思議とこのとき初めて意識した。

(につづく)

A:Shashamane  B:Adis Abeba  C:Asmera

こんな記事も読まれています


エリトリアで借金を

本文を読む

5月
21

エリトリアで借金を 3

posted on 5月 21st 2010 in 1995 with 0 Comments

(「エリトリアで借金を 2」 つづき)

アジスアベバまではバスで一直線。

寄り道することもなくハイレ・セラシエの都へたどり着く。数週間ほどゆっくりしたい気分になるが、財布の状況がそれを許してくれない。でもせっかくここまで来たんだし、と悶々とした葛藤の末、3日間をここで過ごすことにした。

アジスアベバは都会のわりにはのんびりとしたところで、やさしい人が多かったように記憶している。ただやはりどこでも悪いやつらはいるもので、3人組の若者に、ティーセレモニーに連れてってやる、と誘われて、3時間近く歩かされたあげく、コーヒーの一杯も飲ませてもらえないまま、金をよこせ、とすごまれた。普段だったらビビってしまっているのだろうが、元々少ないなけなしの金を奪われては死活問題だ。
生きるか死ぬかは大げさにしても、イスラエルまで行けるか行けないか、という切羽詰まった状況が背中を押したのか、今振り返ってもそこまでしなくても、と思うくらい獣じみた狂気の様態で噛みつかんばかりの威嚇を彼らにしていた。
言うまでもなく3人組はドン引きで、狂人を相手にしてしまったと思ったことは間違いない。口の中で何かをモゴモゴつぶやきながら、僕ひとりをその場に残し、プイっとどこかへ立ち去った。150ドルばかりのお金を守るため、なにか人として大事なものをなくしてしまったような気になって、カツアゲを撃退したという勝利感は全く感じない。トボトボと宿に向かって何時間も歩いて帰った記憶が、15年経った今でも痛い。

アジスアベバまではとにかく北へ、と来たけれど、ここでイスラエルまでのルートを具体的に決めなければならないようだ。スーダンを通り陸路をエジプトへ、と漠然と思っていたのだが、スーダンはまったく未知の世界、情報すら皆無に等しい。当然、何日ぐらい、いくらぐらいかかるのかもわからない。
とりあえずエジプトに行きたいのだけれど、と街で聞き込みをするうちに、エリトリアから紅海をさかのぼってスエズに行く船がある、と教えてくれた人がいた。

ただ、誰に聞いても詳しいことはわからない。船が出てる、というのは本当のようだが、それが毎日出てるものなのか、一週間に一便なのか、はたまた一ヶ月に一便なのかは行ってみないとわからない、という。もちろんいくらかかるのかもわからなかった。わからないが、考えてみればそれはどんなルートを取っても同じことで、船に乗ってさえしまえればあとは波の上を一直線のはずだから、再びスーダンで荷台の旅をするはめになりそうなことを考えれば、こっちのほうがはるかに速いし安いだろう。きっと、たぶん、そうなんじゃないか。

確信のないままエリトリアという聞き覚えのない国の上に、残り少ない賭け金を置くことに決めた。

につづく)

こんな記事も読まれています


エリトリアで借金を


エリトリアで借金を 2

本文を読む
5月
19

エリトリアで借金を 2

posted on 5月 19th 2010 in 1995 with 0 Comments

map Nairobi to Shashamone

「エリトリアで借金を」 つづき)

バスに飛び乗った、までは良かったが、急いている気持ちに反比例してバスは動く気配がない。
まだ出ない?と誰に訊ねても、ケニアの言葉でポレポレ、ゆっくりゆっくり、という返事しか返って来ない。昨晩の酒も残っているし、焦っていたから朝食も食べていないしで、もうこうなったらとことんポレポレ、とぐったり座席に沈み込む。結局バスが走り出したのは4時間遅れの昼頃だった。

懐具合を考慮に入れれば、もう途中下車の旅なんて余裕はかましていられない。とにかくこのバスが行き着くところまで。そうは思っているのだが、きちんと人の話を聞いてみると、このバスはどうやらイシオロという村が終点だという。そこで乗り換え?なんて思っていたのは大甘で、そこからさきはバスもなにもなくなってしまうので、勝手にヒッチハイクでもして行くしかないらしい。その途端、果てしなく遠く感じるイスラエル。いや、実際に遠いのだが。

薄暮の夕方6時頃、終着駅であるイシオロに到着した。ここで一泊して翌朝トラックでも探しなさい、と言われ、気づくと4、5人は北上組がいるようだ。この人たちにくっついていけば、エチオピアとの国境ぐらいは行けるんじゃないか、と少し安堵して宿を取る。
翌朝4時に眼を覚まし、まだ暗い中広場に出てみると、4トンぐらいのトラックが一台停まっている。あれに乗っけてもらえれば、と近づいて行って驚いた。薄明かりの下、荷台にはたくさんの人間がぎっしりとうずくまっていた。エチオピアから作物かなんかを運んできたトラックは、復路には人間を載せて走るのだ。ヒッチハイクといえども運転手にそれなりの代金を払って、荷台に一人分のスペースを確保してうずくまる。みんな頭からすっぽりかぶれる布を持参していて、準備不足、リサーチ不足の自分が恨めしい。
それでもどうにか乗り込んだトラックは出発し、ひたすらサバンナの道なき道を行く。

正直言うと、そこから数日の記憶はあまりない。憶えていることは、ガゼルかなんかの群れをちょくちょく見たことと、荷台とはいえ隙間なく人間が詰まっているので思ったよりも不安定ではなかったこと、それでもトラックが窪みで跳ねたとき、最後尾の人間も跳ねて地面に転げ落ちたこと、ぐらいだろうか。もちろん落ちた人は直ちに回収されていた。

夜になると宿場のような場所でそれぞれ宿を取り、朝になると集合して北へ向かう。一日走り終わったあとにやっと体を伸ばしてみると、頭も服も砂埃で真っ白になっていた。旅慣れた現地の人たちは、かぶっていた布をパンパンとはたいてそれで終了。僕は耳の中まで砂だらけだったが、シャワーに入れた記憶はない。何を食べていたのかも記憶はおぼろげで、バスとは違って同乗者たちとの会話もほとんどないまま、三日間の荷台の旅は、エチオピア南部のシャシャマネという町で突然終わる。

荷台を降ろされたのは、ここからはまた北へ向かうバスがあるからだ。
会話はなかったもののつらい旅をしたもの同士、なんとなくの一体感は感じるもので、荷台のなかの何人かが、アジスアベバ?と話しかけて来てくれた。そう、アジスアベバに行きたいんだ。そう言うと、いっしょに行こう、と誘ってくれる。こういうことが、こういう場所ではとても心強い。

余談になるが、エチオピアにいるときは、どこにいても聴こえてくる曲があった。僕は勝手に「エチオピア音頭」と名付けているのだが、とにかくエチオピアの地名の連呼、アジスアベバ〜、アジスアベバ〜、シャシャマネ、シャシャマネ、他の地名は憶えていないが、かならず二回ずつ繰り返し、最後にエ〜チオピア〜ア〜ア〜、ン〜ダリマサア〜、と締める。ン〜ダリマサア〜はうる覚えだし、なんのことやらわからないが、とにかくどこでも聴こえてくるので15年経った今でも耳に残って離れない。この時点ではもう財布の中身はこれ以上ないほど心細くなっていたので、この曲のテープをどうしても買えなかったのが今思い返してみても悔しい気がする。

シャシャマネに着いたその日は宿を取り、翌朝、アジスアベバ行きのバスに乗る。荷台の旅を終えた後ではおんぼろバスでも快適だ。このとき、残金約150ドル。

(につづく)

A:Nairobi   B:Isiolo  C:Shashamane

こんな記事も読まれています


エリトリアで借金を

本文を読む
5月
17

エリトリアで借金を

posted on 5月 17th 2010 in 1995 with 0 Comments

少し前の話になるが。

愛宕神社のすぐそばに、NHKの放送博物館という建物がたっている。あるとき偶然まえを通りかかり、余った時間をつぶしたくもあり、ものは試しと入ってみた。

ここは昔のNHKの番組が無料で観れる図書館のような施設であって、NHKスペシャルを一本観れば、次の用亊までちょうど良い具合かな、と番組表を物色する。

ほとんど観た事のない古い名作集のなかで、ひとつのタイトルに目が止まった。

希望のSL鉄道 〜若きエリトリアの国づくり〜 (放送:1998年)

アフリカの右肩に位置するエリトリアという国が、エチオピアとの戦争のすえ独立し、荒廃した国を復興して行く様を丁寧に追ったドキュメンタリーだ。戦争の間、20年以上もほったらかしにされ機能を停止していた、国を横断する鉄道が、国民の熱意によって復活を遂げるまで、を象徴的に捉えていた。

僕は鉄道に強い思い入れがあるわけではない。目が止まったのはエリトリアという国名だ。この名は僕にはとても懐かしく、ある種特別な響きがある。もう15年ほども前になるが、僕はその名の国にいた。懐かしいのはそれからの15年、ほとんどその名を聞く事がなかったからで、特別な響きを持っているのは、そのとき僕がとても困っていたからだ。

番組の中で、首都であるアスマラから紅海沿岸のマサオアという港町まで続く線路を、エリトリアの人々はほとんど手作業に近いような装備で作って行く。外国からの借金は増やしたくないという思いから、外資の提案を断って自分たちの資本で線路を敷き直し、1930年製という年代物のSLを、自国の技術者の手で修理して、磨き上げ、沿道に住む人々が見守る中、乾いた地面しかないような国土を試運転していく様子を映していた。

この鉄道が走るルート、アスマラからマサオアという道を、かつて僕もバスに乗って旅をした。僕がいたのが95年だから鉄道はまだ復活していなくて、他に選択肢はなかった。自ら戦って勝ち取ったからだろう、独立したばかりの国に人々は強い誇りを持っていた。バスに乗り合わせた人たちは皆一様に瞳を輝かせて、唯一の外国人である僕にエリトリアという国の全てを披露してくれようとした。ここら辺りはこういうところで、という説明から始まって、食事のために休憩すれば誰がこの外国人にご馳走するかで、おれがおれが、と揉めていた。僕はそんな彼らに尊敬と羨望の念を抱きつつ楽しみながらも、それ以上に大きな不安を抱え、押しつぶされそうになっていた。

話はそれから1ヶ月ほど前にさかのぼる。上海から長い旅をスタートした僕は、様々なトラブルに見舞われながらもチベットを越えネパールを過ぎ、インドから飛行機に乗りケニアにたどり着いた。強烈なインド社会に少し疲労していたせいもあったのだろう、ケニアでは貧乏旅行に似合わないほど毎日財布を開いて遊びまわった。懐具合を顧みる事なく遊ぶこと数週間、ふと手持ちのトラベラーズ・チェックが少なくなっていることに気がついた。

でも、大丈夫。TCは残り少なくなっていても、僕が旅のために貯めたお金の半分はシティ・バンクの口座に入れてある。シティの人は世界中にATMがありますよ、と言っていたのだし。

その夜中、安宿の小さな部屋でビールを片手に、シティ・バンクからもらってきた小冊子で、どこでお金を引き出せるか調べてみる。どうもケニアにはないらしい。僕は陸路を北上してヨーロッパに入るつもりだったので、そのルートのどこにATMがあるのか辿ってみる。エチオピア、ない。スーダン、またはエリトリア、ない。エジプトもなくって、やっと見つけたのがイスラエルだった。

頭を整理して考えてみると、どうやらイスラエルまでは手持ちのお金でたどり着かなければならないらしい。財布の中身をチェックする。全財産、米ドルで200と少々。その金額で、現在地のナイロビからイスラエルまで。もしたどり着けないと、どういうことになる?

その翌朝8時、僕は北に向かうバスに飛び乗った。

につづく)

こんな記事も読まれています

本文を読む
5月
10

セブン・イヤーズ・イン・下町

posted on 5月 10th 2010 in 毒にも薬にもならない with 1 Comments

もう長いこと東京の隅っこの下町に住んでいる。

 

下町というのは地域のことではなく、正確にはコミュニティを指す言葉だ、ということが、長く住めば住むほど身にしみてわかって来る。

斜め向かいのおばさんが、ちゃきちゃきの気っ風の良さで、田舎から野菜が届いたから持っていきな、とじゃがいもなんかを持ちきれないほど手渡してくれる。

二軒となりのおじさんは、僕が庭木の剪定で慣れない汗をかいていると、おれこういうの大好きなんだよ、とノコギリ片手に参戦してくる。にいちゃん、この枝も切っちゃってかまわないかい?

正面向かいのじいさんには、僕が何も告げずに1週間ほど旅に出た後、そこそこ激しく怒られた。いねえから独りで死んじまってんのかと思ったぞ、ひと言いってから留守にしろ。

数え上げたらきりがないが、僕が向こう三軒両隣の大人たちからもらった分の、お返しをできてないのは確実だ。

今日も考え事をしながら近所を歩いていて、隣のじじいに怒鳴られた。にいちゃん、ぼーっとしてっと車にひかれて死んじまうぞ。

いつかは僕もそんなうるさいじじいになるんだろうか、と考える。

全く悪い気はしない。

こんな記事も読まれています

本文を読む
5月
04

ジョージ・マロリーはどこに | 登山家がチョモランマに残した謎と写真の関係

posted on 5月 4th 2010 in 毒にも薬にもならない with 0 Comments

 

強い写真には、どこで出会うかわからない。

当たり前だが、これほどの量の写真に日々晒される生活は、ここ十年ほどの時代を生きた人間以外に前例がないだろう。

横丁の、角を曲がればお店の壁に広告の写真が貼ってあって、といったことは昭和の初期からあったのだろうが、ネットに繋いだ瞬間に、望みもしない多くの写真を見せられる、なんていう経験は、この頃以前の人間は持つ必要がなかったはずである。

ユビサキだけでクリックすれば、今日の晩ご飯やセクシーなお姉さんや新発売のスポーツカーなんかが我も我もとこちらの目に脳に飛び込んで来る。その副作用は一体どういうことになるのか、なんていうことは全く想像もつかないが、なんの縁だか写真というものを生業にしている身としては、おもろい時代になったなあ、と思わずにはいられない。

そんな時代なのに、というよりも、そんな時代だからこそ、目にした瞬間に内臓をわしづかみにされてしまうような写真に出会うことが割合としては少なくなってきている気がするのだが、反対に、意図していない瞬間に、とんでもなく強い写真に出会ってしまい、心の準備もないままに五臓六腑を引きずり出されてしまうような、快とも不快とも言えないような経験をすることがまれにある。

ヒマラヤやチョモランマ関係の調べものをしている最中に、久しぶりにそんな経験をした。

登山家であるジョージ・マロリー(George Mallory)を撮影した写真である。まだチョモランマの頂上に人類が到達していなかった頃、1920年代に活躍したイギリス人で、マロリー自身、21年、22年、24年と3度の挑戦を行った。結果を先に言ってしまうと、その3度とも頂上の踏破は叶わず、人類初の登頂は1953年のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイまで待つことになる。

マロリーは24年に行われた3度目の挑戦で、サポート役のアンドリュー・アーヴィンと共に行方不明になり、帰らぬ人となってしまった。頂上に最も近い第6キャンプから、二人が頂上に向け登って行く様子を見つめていた遠征隊員のひとりであるオデールの目撃証言を最期に、ふたりはこの世からいなくなってしまったのである。

ふたりの生存に関しては、キャンプに戻って来ないことからも絶望的と思われたが、そこでひとつの謎が残された。

ふたりが行方不明になったのは、登頂を果たした後なのか?それとも頂きに達する前なのか?

果たして、ふたりは頂上を踏んだのか?

今となっては確認をとる術もなく、謎は謎としてヒマラヤの氷の中に永遠に凍結されることになる。「頂上を踏んだら妻と娘の写真をそこへ置いて来る」と言い残していたその写真も、後の登頂者に発見されることはなかった。

 

Chomolungma/Sagarmāthā

 

そしてそれから75年という歳月が流れた1999年、アメリカ隊によって頂上付近でうつぶせになったマロリーの遺体が発見される。遺体や遺品の状況等が調べられたあと、マロリーは隊員たちの手によって葬儀、埋葬されるのだが、発見時の大きな記録として撮影された写真が、今回僕が偶然目にしたものだ。

8000m級の山の頂上付近という特異な気候条件の下、75年が経ちながらも遺体は白骨化していなかった。うつぶせになって瓦礫に頭部を埋めている遺体は、破れた服から背中をむき出しにして晒している。何故だか色素が抜け落ちてその肉は真っ白になっている。垣間見える服装や装備は現代からは信じられない素朴なもので、鋲を埋め込んだ靴底なんかも、山には素人の僕でさえ多分に心細くなるほどの古めかしさだ。

予期しない形でこの写真に出会ってしまった僕は、前人未到の頂きに挑戦し、命を落としてしまったマロリーの無念さや勇気や強さや、ベースキャンプで待ち続けたオデールたちの歯噛みするような悔しさや、戻って来ると信じて疑わなかったマロリーの妻や子供たちの言いようもない哀しさや、そういう言葉にできもしないたくさんの人々の想いをふいに眼前に提出されたような気になって、ぐっと息を吐いたまま、しばらくの間、目を離せなくなってしまった。

写真家が写真家として撮った写真を論ずる以前の、根本的な写真の強さがそこにあったように感じたのだ。

写真とは主要な芸術の中でただ一つ、専門的訓練や長年の経験をもつ者が、訓練も経験もない者に対して絶対的な優位に立つことのない芸術である。

そんなことをある思想家が書いていたのを読んだことがあるのだが、マロリーの写真を撮ったのが経験を積んだ写真家か否かはさておいて、現実に対する視点や解釈を根こそぎ圧倒してしまう、そんな巨大な事実の前では、訓練や経験なんかは毛ほどの意味もなく、だからこそこのような事実の前に立ち向かうためには写真という手段は飛び抜けて強力なものなのだ。言葉を換えれば、写真というものは、撮影者の訓練や経験や技術といった、本来は媒介になるための重要な要素をことごとくいとも簡単に飛び越えて、目の前の現実と直結してしまう。写真はときにウソをつく、といった問題はまた別にあるにしても、目の前に広がる現実は、それが圧倒的なものであれ些末なものであれ、カメラの前では腹を見せた子犬のように素直で素朴なものになってしまう。

行方不明になったとき、マロリーは一台のカメラを持っていた。当時としては最新鋭の、コダック社製のブローニーフィルム用のポケットカメラだ。そのカメラと、もしかしたら撮影済みのフィルムが見つかれば、永遠と思われていた謎が解けるのではないか、つまり、マロリーとアーヴィンが頂上で写真を撮っていれば、登頂の確たる証拠になるだろうと思われていたのだが、幸か不幸かマロリーの遺品の中にはカメラもフィルムも含まれてはいなかった。

「カメラが発明されて以来、写真はいつも死と連れ立っていた。」

さきの思想家はそういえばこんな言葉も残していた。

ヴェストポケット コダック(Vest Pocket  Kodak)という名のそのカメラは、未だに発見されていないアーヴィンとともに、今もヒマラヤの氷の中に眠っているのだろうか。

 

参考文献

そして謎は残った―伝説の登山家マロリー発見記

posted with amazlet at 15.11.17

ヨッヘン …

本文を読む