Monthly Archives: 6月, 2010
(エリトリアで借金を 9 つづき)
翌朝、日の出とともに目が覚める。
この時期のアスマラは毎日雲ひとつない快晴だ。オレンジをひとつだけ食べ、良いアイデアも浮かばないまま街に出る。
こうなったら数打ちゃ当たるかも、とまたしてもヨーロッパからの観光客に手当り次第に声をかけてみる。当然だがけんもほろろ、芳しい答えは得られない。もしかしたら、とエリトリア人にも声をかけてみる。お金貸してくれたら、僕ヨーロッパに一度行って、お金引き出してまた戻ってきますから、と。急ぎ足の旅でエチオピアもエリトリアもろくろく観ていないので、お金持ってまた来るのも良いかな、なんてのんきなことをこのときは本気で考えていた。
何連敗したのだろうか、いつの間にか太陽が西に傾き始めたころ、あるスイス人のカップルに声をかけた。
やはり当然のことながら、僕たちは貸せないな、と断られてしまったのだけれど、去り際に、そういえばさっき日本人らしいツアー客を見かけたよ、と気になるひと言を残して行った。
日本人のツアー客?独立したばかりのこの国で?
半信半疑、もしかしたら韓国の建設会社の人たちのことなのかも、なんて思いながらも、この状況でのそのひと言は僕にとっては天から垂れて来たクモの糸、あたってみるしかない、と大急ぎでツアー客が泊まっていそうな大きめのホテルに飛び込んだ。
ホテルの受付係は優しそうなおじさんだった。ここに日本人のツアー泊まってる?と鼻息荒く飛び込んできた僕の勢いに不穏なものを感じたのか、泊まってません、と妙にオドオドしながらおじさんは答えた。
ここではないのだ。でもアスマラでツアー客が泊まれるような大きなホテルはそれほど多くはないはずだ。
電話帳貸して下さい、そうお願いした僕に、おじさんは変わらずオドオドしながらも即座に分厚い電話帳を持って来てくれた。ホテルの欄を開き、おじさんに、大きなホテルはどれですか、と訊ねる。
おじさんが指した電話番号を、片っ端からかけてみる。電話一回の料金がそのままオレンジ4個分だ。縮まるタイムリミットを頭の隅で気にしながらも、一軒目、二軒目、三軒目とかけ続ける。どこも、ここにはいないよ、という返事だった。財布が空になるまで電話してやれ、と人ごとのような、やけっぱちのような気持ちで回転式のダイアルを回す。
七軒目にかけたとき、受話器の向こうの人がちょっと陽気な感じで、ああ、うちに泊まっているよ、と言った。
(つづく)
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20日発売のSWITCHで、嵐の二宮和也くんを撮影した。
写真はコチラから
京都の太秦に出かけて行き、映画「大奥」の撮影現場にお邪魔しての撮影だった。
映画の撮影がひと段落した頃、二宮くんは僕のカメラの前にやって来て、ふわりとした感じで立った。
その「ふわり」が、肩に力の入っていない自然なもので、僕はその佇まいをとても美しいと思った。
周囲の友人からは、二宮くんは「ふつうの男」を演じるのがとても上手な役者なんだ、と聞かされていた。
「ふつうの男」が上手い役者は、決してふつうの男ではない、という考えてみれば当たり前のことを改めて実感する。
以前いっしょに仕事をした映画のスタッフが、「太秦のスタッフは頑固で気難しい」と何度も言っていた。職人肌なのだろう。そんな太秦の、照明部の親分が鼻息も荒く、「ニノにはおれが(照明を)当てる!」と、僕の撮影のために照明を組んでくれた。
親分も、映画俳優としての二宮くんのこの先を、楽しみにしているに違いない。
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(エリトリアで借金を 8 つづき)
日がな一日、街をうろつき、観光客を見つけては声をかける。
フランス、スイス、イギリス、などなど20組ぐらいに声をかけ20連敗ほどもしただろう。いつの間にやらアスマラの一等地に立つ中国大使館の前に立っていた。
今思い返せば、血迷っているとはこういうことかと背筋が冷たくなるのだが、そのときの僕は「溺れる者はわらをもつかむ」という言葉の体現者そのものだ。遠い異国のエリトリアでは中国も日本も親戚のようなもの、アジアのお隣さん同士なんとか相談に乗ってくれるんじゃないかと、ふらふら門をくぐろうとした。
エリトリア人の門番らしき男に、何の用ですか?と止められて、かくかくしかじかでお金借りたいんだけども、と話したところ、それでなぜ中国大使館が日本人であるあなたを助けられると思うのですか?とやさしく諭された。
そう言われればその通り。返す言葉が無い。わらをもつかもうとしたのです、なんて余計なことは言わずにトボトボとその場を立ち去った。
また別の日は、僕を韓国人だと思った人が、韓国の建設会社が郊外で工事してるよ、と教えてくれた。性懲りもなく、韓国も日本もお隣同士の親戚同士、と都合の良い理屈をつけて三時間の道を歩く。着いたところはなにかしらの公共設備の建設現場。確かに韓国の会社らしくハングルの看板などがちらほら見えるのだが、働いているのはエリトリア人ばかりで韓国人は見当たらない。そのうちだんだん頭も冷静になってきて、これは中国大使館の繰り返しと確信し、情けないことこのうえないがそのまま三時間を引き返す。
そうして一日、また一日と、出口がまったく見えないままに時間だけが過ぎて行く。日々の支出は安宿とオレンジ数個のみなのだけど、それでも日に4ドルぐらいは着実にお金は減っていて、5日が経ったころには財布の中身は7ドルぐらいになっていた。
夜、重い足を引きずって宿に戻る。オレンジを2個食べて、むりやり空腹をごまかした。なにもしていないという時間が最も心が重くなるときで、困ったときの神頼み、生まれて初めて神様仏様、さらにはご先祖様にも拝んでみたりする。そんな不安を抱えながらも、一日歩き続けたせいで夜になるとちゃんと眠くなる。神様仏様ご先祖様、と呟きながらいつしかどろりとした眠りに入る。
明日、何の成果も得られなければ、空きっ腹を抱えて街角で野宿、ということは避けられない。
(10につづく)
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(エリトリアで借金を 7 つづき)
その日のうちに、来た道をそのまま戻りアスマラに帰って来た。
ハジスの家にもう一度、と思ってみたのだが、ハジスの家がどこだかわからない。ものごとうまくいかないときは全てがうまくいかないもので、ハジスが、手紙をくれ、と言って僕に手渡した住所を確認すると、P.O BOX、いわゆる郵便局の私書箱あてになっていた。
しかたないのでハジスの家に戻るのはあきらめて、最も安いと思われる宿を取る。食事はもちろんオレンジのみだ。
なにを差し置いても、まずビザを取りに行かないとならない。アスマラに戻った翌日、まずはエジプト領事館を訪れる。確かビザは14ドルとかで、ちょっとほっとしたのを憶えている。一日待って、その次はサウジのビザだ。以前から、サウジアラビアはイスラム教徒以外のビザには厳しい、と聞いていた通り、トランジットのビザしか出せないという。やはり一日待ち、痛い40ドルほどを払ってビザを受け取る。有効期限は入国後36時間。
さあ、これでビザは整った。これで十分な資金が手元にあれば、マサオアに向け再出発、ということになるのだろうが、悲しいことに手元には20ドルぐらいしか残っていない。マサオア発の船にも乗れないのだ。
とにかく、お金をどうにかしなければ。焦ってばかりの頭をむりやり整理して、どうすれば良いか考えてみる。
日本の家族に送金を頼む。これはダメだ。できたばかりの国で、送金が何日かかるかわからない。無事に届くかどうかさえ危ういし、国際電話をかけた時点で僕が数日生き延びるためのわずかなお金さえなくなってしまう。
大使館に頼る。これもダメ。エリトリアに日本大使館がない。エチオピアにはあるのだが、そこまで行くお金もない。第一、大使館がお金を貸してくれるのかどうか。
働く。例えばここで100ドル貯めるのに、一体どのくらいの時間がかかるのか。こつこつやっているうちにエリトリアのビザさえ切れてしまうだろう。
もう、こうなったら考えててもしかたない。僕は街に出て、数少ないヨーロッパからの観光客に声をかけ始めた。
どこから来たんですか?ああ、ドイツ?ぼくもこの後ドイツに行こうと思っていますよ。それで相談なんですが、お金貸してもらえませんか?ドイツに行ったときに返しますので、、、。
これでイエスと言ってくれる人がいれば、それは天使のような人物なのだろう。
(9につづく)
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初めてだったのか。緊張していたのか。
僕は京成線沿線に住んでいる。
都心から帰ってくる場合、最寄り駅の手前にさしかかると車掌さんのアナウンスが入る。
「北総線直通印西牧の原行き電車は、2番ホームでお待ち下さい。」
漢字が多くて読みにくいが、ひらがなだと
「ほくそうせんちょくつう、いんざいまきのはらいきでんしゃは、、、」になる。
今夜も、ちょっと鼻に抜ける高めの声でアナウンスが入った。
「ほ、本日も、京成線をご、ご利用いただきましてありがとうございます。」
なんだ? 今日は調子悪いのか? と思った一瞬後、事件は起きた。
「ほ、ほくちょーちぇんちょくちゅう、い、い、いんぢゃいまきのはらいきでんちゃは、、、。」
まったく言えてない。「子供かよ!」「甘えんぼかよ!」乗客が数人、素敵なツッコミを入れる。
アナウンスは3秒ほど沈黙し、彼が最初から言い直すのかと僕は思ったが、
「、、、2番ホームでお待ち下さい。」
何事もなかったかのようにスルーした。電車の中は明るい笑いに包まれた。
僕も笑った。駅から家に歩きながら、何度か思い出し、また笑った。
ひとの失敗を笑うのはいけないことだが、笑って、書いた。
伝われば、うれしい。
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(エリトリアで借金を 6 つづき)
完全に固まってしまった僕に、ボスの言葉が追い討ちをかけた。
エジプトのビザも持ってるか?
しまった。船のことばかりに執着しすぎて、大きなミスをしでかした。サウジアラビアに行くつもりは全くなかったので、ビザを持っていないのは仕方のない話だが、エジプト行きの船を探しにきたのに、エジプトのビザを持っていない。
僕の無計画なだらしなさは、目の前のことしか見えなくなるのが原因だ、と普段から思っていたのだが、実は目の前のことも見えてはいなかった。自業自得の悲しさで、誰のせいにするわけにもいかず、悔しさだけが募ってくる。答えはわかりきっていたのだが、それでも一応、ビザがないとダメなのか?と聞いてみる。ホントはビザがなくても行けるでしょう?と。
それまで落ち着き払っていたボスは、僕の国際ルールを無視した質問に、よっぽど不意をつかれたのだろう。初めてわかりやすい狼狽を見せ、いやいやそれは決まりだからと、なんとなく目の前のアジア人を哀れんだ目で見た。
考えがまとまらないまま、うわのそらでボスにお礼を言って、外に出た。目の前はエメラルドグリーンのとんでもなく美しい海だ。そんな一生に一度出会えるかどうかという景色を前にして、残念なことに僕の気持ちは重かった。
さあどうする?このままエジプトに行くのはムリだ。船もないしビザもない。密航?吉田松陰じゃあるまいし。賭けには負けた。負けたが、僕はまだ生きている。とにかく前進しなくては。
もうこの時点で、すべきことはわかっていた。アスマラに戻り、サウジとエジプトのビザを取る。ビザがいくらか知らないが、それでお金はほぼなくなるだろう。船のチケットは買えなくなるから、お金をどうにかしなければならない。マサオアに再び戻り、船に乗りジッダへ。ジッダで船を乗り換えて、スエズ。スエズに着けば、イスラエルはもう目と鼻の先だ。
そうする以外にないことは、回転してない僕の頭にも明らかだが、お金をどうにかする、という部分が最も肝心で、その肝心の部分がまったくの霧の中、どうするべきかわからない。
とにかく、一刻も早くアスマラに帰らなければ。
町の中心に戻ると来たときのバスがまだ停まっていた。気の良い運転手に不思議な顔をされながらも、そのままバスに乗り込んで、まったく同じ道のりを、今度は山を登って行く。
(8につづく)
A:Asmera B:Massawa
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(エリトリアで借金を 5 つづき)
バスで乗り合わせた人々が口を揃えて言うことには、戦争中、マサオアは最も激しい戦闘を経験した町だという。
マサオアの町に入って見れば、なるほど戦火に焼かれた場所とはこういうことか。一目で納得がいくほどに、町は荒廃というひと言に尽きる。無事な建物のほうが珍しい。多くは壁や天井に大きな穴が空いていて、真っ黒こげになっていた。この国が戦争に勝利して、独立を宣言したのが93年ということなので、それから2年は経っているのだが、戦争の傷跡はそれでもいたるところに転がっていた。
バスは町の中心で客を降ろし、僕は教えられた道を港湾事務所に駆けて行った。僕が取ったルートが正しかったかどうか、僕の賭けが勝つのか負けるのか、答えは1キロほど先の港にある。焦れる気持ちをバックパックの重さにブレーキをかけられながら、汗だくになって、あそこだよ、と指された建物のドアを開ける。
勢い良く飛び込んできたアジア人に、事務所の人たちは初め少し驚いたようだったが、船は出てるか?と聞いた僕に、さらに驚いたようだった。
きちんとした答えが返って来ないので、もう一度、エジプト行きの船はここから出てるか?と聞いてみる。一瞬の沈黙の後、返ってきた言葉は「ノー」だった。
思わず目の前が暗くなったが、出てないの?ホントに出てないの?としつこく聞く僕を、そこのボスらしき男が、落ち着きなさい、と手で制した。どうやら僕は必死になりすぎて、彼らが話す隙も与えず質問攻めにしていたようだ。
すこし気持ちを落ち着かせてボスの言うことを聞いてみると、確かにエジプト行きの船はここにはない、という。ここからは、対岸であるサウジアラビアのジッダという港に行く便しかない。エジプトに行きたければそこで船を乗り換えなさい。呆れた顔も見せずにボスはていねいに教えてくれた。
そういうことなら、もちろん行くしかない。考えている時間はないのだ。ジッダまでの便は30ドルぐらいらしい。財布を見ると、80ドル残ってる。ジッダからスエズの船はいくらぐらいか聞いてみたが、ここではわからない、それはジッダで聞きなさい、という。
わかった、行こう。船のチケットが30ドル。そうすると残り50ドル。直行便はなかったが、ジッダからスエズまでの便が30ドルとか40ドルならまだ行ける。まだ勝てる。
船が出るのはちょうど明日だ。それを逃すと次の便は1週間後。よし、買おう、と言った僕に、ボスが相変わらず落ち着きはらった声で聞いた。
サウジアラビアのビザは持ってるか?
(7につづく)
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インドに一週間ほど行って来た。
詳しい話はまた別の機会に書きたいと思っているが、毎回インドを訪れるたびに持つ感想がある。
インドの挨拶は美しい。
例えば、親戚のおばあちゃんに会う。
年下のひとはお年寄りの前にかがみ、そのサリーの裾、または足を軽く手で触る。
そのままその手で自分の眉間をさわり、胸のあたりをさわる。
この一連の動作を流れるような所作でもって行う。
年長者に対する敬意と愛情をこの動作で表すのだという。
アーメダバードという都市にほど近いカロールという村で、インド人の友人の家にお世話になったのだが、滞在中は僕もよくこの挨拶をした。
軽い感じでこの挨拶をすることもあるし、帰国する前のお別れではもっと正式な、土下座に近い格好でおばあちゃんの足をさわって、おばあちゃんは僕のために旅の無事を祈ってくれた。
インドの人々がこの挨拶をするのを目にするたびに、何千年も以前から変わることなく繰り返されてきたその動作に、シンプルだがとても完成された美しさを感じる。
ラーマヤーナというヒンドゥーの聖典に登場するラーマ王子とシータ姫がまったく同じ動作をしているので、神話の世界からずっと同様の所作が続いて来ているのだろう。
まったくの蛇足、かつどうでもいい話だが、友人の親戚のひとりはカロールという村でトヨタのカローラを乗り回していた。
名前のおかげというわけではないだろうが、とっても気に入っているそうだ。
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