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7月
29

トーキョーヨヨギで返済を 2

posted on 7月 29th 2010 in 1995 with 0 Comments

トーキョーヨヨギで返済を つづき)

その雑誌は第一勧銀の社内報で、発行は1997年となっていた。

表紙を開くと謝さんの名前とともに、「ほろ苦い絵ハガキ」というタイトルがある。すぐにあのときの僕との出会いを書いたものだと知り、その場で読ませてもらう。

「ほろ苦い絵ハガキ」 謝孝浩

「石川ですけど。覚えていますか」

深夜、突然電話が鳴った。イシカワ?思いあたる顔が浮かばなかった。

「エリトリアでお金を借りた石川です」

ああ、っと声をだして、長髪のひょろっとした青年の姿が頭をよぎった。一年半も前の事だ。エチオピアから分離独立したエリトリアという国に仕事で行った時だった。

「日本の方ですか?」

振り向くと、よれよれのシャツにGパン、長髪に無精髭の二十五歳くらいの青年がいた。その風体に何となく懐かしさを感じた。

私が頷くと、彼は少し黙っていたが、思い切ったように声をだした。

「ぶしつけで申し訳ないのですが、お金を貸していただけないでしょうか」

彼の話によると、八ヶ月ほど前に日本を出発し、東南アジア、インド、中近東を経て、一度ヨーロッパに入り、そこからアフリカに渡ったという。ヨーロッパ滞在中にスイスの銀行に口座を作って預金しておいたのだが、エチオピアでは引き出せなかった。あわてて有り金をはたいてエリトリアまできたものの、ここでもダメだった。エリトリアの港からエジプトに船が出ているらしく、エジプトならその金が引き出せるだろうから、それまで必要なお金を貸してもらえないかというのだ。

「いくらぐらい必要なのですか?」

「アメリカドルで二〇ドルあれば、、、。あと三ヶ月ほどしたら帰国しますので、その時必ず返します。僕の運転免許証をかわりに持って行って下さい」

せっぱつまった思いと誠実さが感じとれるような気がした。それ以上に愕然としたのは、彼が貸して欲しいという金額だった。たったの二〇ドル。一ドルというものを、本当に大切に使って旅をしているのだ。

十年ほど前、彼と同じくらいの歳の時、私はヒマラヤを六ヶ月近くあてもなく旅をした。お金がないなりに、その土地の風景や人びとの中に溶け込もうとしていた。現実逃避だと思いながらも、自分というものの存在を問い直していた旅。いや、それさえもあやふやで、ただただ浮遊していた自分。あの頃の、ほろ苦い感触を思い出していた。

私は、エジプトでも引き出せないことを考えて一〇〇ドル貸すことにした。

「免許証も利子もいらないから、思い出したら旅先からハガキをくれよ」 そう言って別れたのを覚えている。

私が帰国してから三ヶ月ほど経って、もう少し旅を続けるというような文面の絵ハガキをモロッコからもらった。

「帰って来たのかい?」

「いえ、まだニューヨークなんです。それでまだあと一年か二年は帰れそうにないんで、借りたお金を送金しようかと思って」

「国際電話!?お金は帰国した時でいいから、電話代もったいないから早く切りなさい」

ブーという音を聞きながら、なんだか、おかしくなってきた。この一年半、彼はどんなルートを通ってニューヨークへ辿りついたのだろう。そして、さらに一年も二年もどこに行くのだろうか。聞きたいことは山ほどあったのに、まあ、いいか。そのうち、どこかの匂いがしみついた絵ハガキが着くだろうから。

そこにはあのときの謝さんの目から見た僕がいて、思わずなんだかエリトリアのホテルのロビーに舞い戻ったような気分になってしまう。お互い記憶が少し違う部分もあるが、なにしろ何年も前の、ほんの数十分の邂逅だったのだ。

僕はあのとき必死になっていて、自分の長髪も無精髭も覚えてなかったし、モロッコから絵ハガキを送ったこともこれを読んで、ああ、言われてみればそうだった、と思い出すぐらいだった。ただひとつ、あのとき謝さんが僕に言った言葉は間違いなくはっきりと覚えていた。あのとき謝さんは、今後君が困っている人に出会ったら次は助けてあげなさい、と言ってお金を渡してくれたのだ。

その後8年、謝さんが僕にしたように、僕は誰かに手を差し伸べることができただろうか。自分勝手に困ってばかりで、困った人を助けたという自信はまったくない。いつか、そのときが来たら、と思っているばかりだ。

あのとき言われたこと、たぶんまだぜんぜん出来てないです、と謝さんと笑い、冷えたビールで乾杯する。今度ははっきりと口に出して言う。

エリトリアに。

(ほんとにおわり)

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7月
25

トーキョーヨヨギで返済を

posted on 7月 25th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 14 つづき)

東京。2003年。

僕は28才になっていた。イスラエルにやっとの思いでたどりついた旅はその後もつづき、ヨーロッパに入ったのち、今度は西アフリカに行き、またヨーロッパに戻って来るという思いつきと行き当たりばったりのルートで、無計画さは最後まで変わらなかった。お金が尽きてイギリスで半年ほどバイトをして、そこで稼いだお金で東ヨーロッパを旅したあと、そうだ、ニューヨークに住もう、とそのままアメリカに7年ほど住み着いてしまっていた。

その間も頭の隅っこでは、あのときエリトリアで握りしめた200ドルのことは消えることはなかった。必ず返しに行きます、そう言って僕はお金を借りたのだ。

ニューヨークに着いて、アパートを見つけ落ち着いたころ、いちど日本のあの人に電話をしたことがある。あのときは半年ぐらいで日本に帰るつもりだったんですが、のびのびになるどころか、これからニューヨークに住もうと思うんです。あのときのお金をこっちから送金しますから。

あの人はちょっと笑って、帰って来たときでいいから、それより電話代もったいないから、と言って電話を切った。それから7年ー。

ニューヨークのアパートを引き払い、日本に戻った僕はあのときもらった名刺を数年ぶりに見直した。○○旅行社の謝孝浩さん。そこに記載されている会社の番号に電話をかける。

電話に出た女性は、謝はもう会社を辞めました、と言った。理由を話して、自宅の電話番号を教えてもらう。その番号にかけてみると、何回かのコールのあと、はい謝です、と声がした。

あの、石川です。8年前にエリトリアでお金を借りた者です。そういうと謝さんは少し考えたあと、ああ、あのときの、と思い出してくれた。改めてお礼を言い、あのときのお金をお返しに行きたいのですが、と伝える。

謝さんはアスマラで僕を見送ってくれたときと同じような気軽さで、じゃあご飯でも食べに行きますか?と誘ってくれた。

代々木の駅前で、8年ぶりに謝さんと会う。

カンボジア料理の店に入り、あのとき借りたお金を渡す。これは返ってこないものだと思っていたから、今日はこのお金で食べましょう、そう言って謝さんは注文しはじめた。

そういえば、会社は辞められたそうですね。そう聞くと、うん、いまはライターとして文章書いているんです。そう言って謝さんはいくつか雑誌の名前を挙げた。とても近いところでお互い仕事していることに気づき、改めて人の縁というのは不思議なものだ、と感じたのだが、何かを思い出したように、そうそう、こんなものを書いたんだ、と謝さんが一冊の薄い雑誌を取り出した。

につづく)

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20

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posted on 7月 20th 2010 in 1995 with 0 Comments

map Massawa to Tel-Aviv

エリトリアで借金を 13 つづき)

サウジはビザに厳しかったが、入国審査もきびしかった。

なぜだか理由はいまだに不明だが、審査の列で僕の前に並んでいたおじさんが、脇に大きなマクラを抱えていた。長い船旅ではマクラは必需品、なのかもしれないが、かわいらしいことこのうえない。イミグレーションの係官はそれに目をつけて、まずは中に何も隠していないか、パンパン叩いていたのだが、あげくの果てにはナイフを持ち出し、真ん中から大きく切り裂いてしまった。羽毛を外に飛び散らかしながら中に手を突っ込み、当たり前だがそこには羽毛しかないことを確認し、はいオッケー、とおじさんに返す。受け取ったおじさんも僕も目が点になっていた。

36時間の期限付きで、ジッダに入る。まずはエジプト行きの船のチケットを買いに行く。船の出発が3日後、なんて言われたらまたビザの問題が出てくるし、200ドル、なんて値段だったらまたしてもお金が足りなくなる。まだまだ気は抜けないのだ。

港の近くの事務所で聞いてみるとスエズまで80ドル、幸いなことに今夜出発するという。チケットを買い、ジッダの街をぶらぶらしたあと港に戻り、船に乗り込む。ここまで来れば焦ってばかりいた僕の心にもだいぶ余裕が生まれて来て、これならカイロによってピラミッドだけでも見て行こうかと、調子の良いことを考え始める。

二泊三日かかってスエズへ到着。やはりどうしても、とカイロに行くことにする。ピラミッドを堪能し、そろそろヤバい、とイスラエルのテルアビブ行きの長距離バスに乗る。バスは夜を徹して走り続け、翌日の昼頃にはテルアビブのターミナルで乗客を降ろした。

初めて触れるイスラエルの空気を吸いながら、財布の中を見る。カイロによっていたせいで、またしても10ドルぐらいになっている。でも、大丈夫。シティ・バンクの人は世界中にATMがありますよ、って言っていたのだし。

そのまま近くにATMを探し、カードを突っ込む。ザッと機械の音がして、初めて目にするシュケルの札が数枚、取出し口から現れる。教えられた安宿に歩いて行き、荷物を下ろし、近くの酒屋にビールを買いにいく。1ケース買って宿に戻り、カウンターにドスンと載せる。一本だけ取出して、あとは勝手に飲んでよ、と受付のおにいさんに渡す。

貧乏旅行者が集まる安宿で、それは珍しい光景だったのだろう。ロビーにいた客たちが、おれもおれもと、またたく間に12本のビールは売り切れた。

受付のおにいさんは自分でも一本開けながら、なんか良いことでもあったのか?とそのわけを知りたがっていた。いや、深い理由はないけれど、と答えたものの、ビールを持った人たちが一斉に、チアーズ!とうれしそうに言ったとき、ひとつだけ心の中でつけ足した。

エリトリアに。

(おわり)

A:Massawa  B:Jiddah  C:Suez  D:Cairo  E:Tel Aviv

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7月
16

エリトリアで借金を 13

posted on 7月 16th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 12 つづき)

見覚えのある道をバスが走る。

朝アスマラを出発した僕は、まだ日があるうちにマサオアに到着した。

1週間ぶりの港を港湾事務所に向かって歩く。事務所の人たちは僕のことを覚えていたらしく、入ったとたんに挨拶ぬきで、ビザもらったか?と聞いて来た。

僕も挨拶ぬきでパスポートを開いてみせ、ほら、とサウジのビザのページを見せると、なぜだかそれをみんなして回し見して、顔をほころばせた。

最後にボスがそれを見て、相変わらず冷静に船のチケットを作り始める。チケットはわら半紙のようなペラペラの一枚の紙だ。僕が代金を手渡すと、ボスはそれに勢い良く最後のスタンプをドン、と押した。

その夜はマサオアの半壊した宿に泊まり、翌朝港に戻る。漁船をちょっと大きくしたような、なんとも心許ない船が一隻停まっていた。 乗り込むとちょうどイスラムのお祈りの時間が始まったようで、狭いデッキに数十人の男たちがそれぞれ小さなカーペットを敷き、メッカに向かって礼拝している。アッラアアー、アクバアール、という祈りの声は船のスピーカーから大音響で流れていて、普通の会話も覚束ない。他に何もすることなく、ぼんやりしながら出発を待つ。

心許ないながらも船が出発し、翡翠色をした波の上を、すべるようにとはいかないが、ノロノロと進む。エリトリアの黄色い陸が少しずつ小さくなり、水平線に消えていく。太陽はこれ以上ないほど強く照りつけて、船上に濃い影を作る。

しばらくして空腹を感じ、船の小さな売店に行ってみて愕然とした。ここでは米ドルはもちろん、エリトリアの通貨であるナクファでさえも使えないというのだ。食べ物欲しかったらサウジのリヤルを持って来な、というのだが、これからサウジに行く僕が、リヤルを持っているわけもない。せっかく苦労してお金を借り、わざわざ船中のためにと少々のナクファに替えておいたのに。ジッダまで二泊三日の船旅で、思わぬ理由で絶食を覚悟した。

腹減ったなあ、とふらふら船内を歩いていた僕に、乗客のひとりが声をかけた。見るとそこには床にカーペットを敷き、ピクニックのように食べ物を広げている一団がいた。サウジの人たちだったように記憶しているのだが、その人たちは僕が空きっ腹なのを見抜いたのだろうか、陽気に、こっちに来て一緒に食べないか、と誘ってくれた。

喜んで、と彼らが持ち込んだ食事を遠慮もなくいただく。うまい。ありがたいことにこれも食え、あれも食えと、もう満腹、というところまで次々とごちそうになる。あとで気がついたのだが、食事時になると乗客たちは船のいたるところでこうしたピクニック状態になっていた。それに気づき味をしめた僕は、時間になると船の上を散歩する。必ず、どこかしらのピクニックから声がかかり、腹一杯の食事にありつける。

一日五回、問答無用の大爆音で流れるコーランの響きには閉口したが、サウジの食事のおいしさと彼らの優しさは僕の粗末な旅を明るく彩ってくれた。

時折イルカに並走されながら、船はジッダの港に入る。

14につづく)

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7月
13

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posted on 7月 13th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 11 つづき)

15分も話し続けただろうか。その間、その人は僕の話を静かに聞き続けてくれた。

そして僕がすべてを話し終えたとき、その人は考える素振りも見せず、いいよ、いくら必要なの?と即座に答えてくれた。

あまりにも簡単にそう言ってくれたので、今度は僕のほうが驚いて、えええ?本当にいいんですか?と聞き返してしまった。

その人は静かに頷いてこう言った。僕も若い頃には今の君のように旅をして、年上の人にたくさん世話になった。だから僕は今、君にお金を貸そう。そして君は今後困っている人に出会ったら、このことを思い出して助けてあげなさい。

で、いくら必要なの?ともういちど聞かれた僕はちょっと迷い、100ドルあればイスラエルまで行けると思うんです、とさらに小さくなって言う。たぶん、大丈夫です、と言った僕の自信のなさを感じとったのだろうか、その人は、じゃあ念のため、と言い100ドル札を2枚手渡してくれた。

そのとき僕は二十歳を過ぎたぐらいだったが、後にも先にもこのときほど紙幣を重く感じたことはない。

掌の2枚を握りしめて、その人の名刺を受け取った。名刺には秘境を専門にツアーを組む旅行会社の名前があった。半年ぐらいしたら帰国して必ず返しに行きます、その人に頭を下げた。

いいよいつでも、それより気をつけて行きなさい、とその人は近所を散歩するような気軽な感じで僕を門まで見送ってくれた。心の中でもういちど、必ず返しに行きます、と繰り返し、ホテルを後にした。

クモの糸はちぎれなかった。これでまた前に進める。そのまま宿に戻り、荷物をまとめる。明日の朝、マサオアに行こう。港のボスは明後日には船が出ると言っていた。いまならギリギリ間に合うはずだ。

13につづく)

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7月
05

エリトリアで借金を 11

posted on 7月 5th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 10 つづき)

即座に電話を切り、そのホテルまでの行き方をおじさんに教えてもらう。

おじさんは僕の状況が飲み込めたのか、もうオドオドするのをやめ、むしろ張り切って詳しい地図まで描いてくれた。

地図の通りに40分ほど歩く。教えられた上り坂の向こうに、4階建ての瀟洒な白いホテルが見える。門まで近付いて行ってよくよく見てみると、その2階の窓から、確かに日本人らしき女性が顔を出して外を眺めている。

躊躇なく声をかける。こんにちは、日本の方ですか?ああ、やっぱりそうですか。あの、お金貸してもらえませんか?

またしても狂人扱いされても仕方のない状況だ。気の毒な女性は驚いた顔を見せながらそれでも、ロビーで待っていて下さい、と2階から降りて来てくれた。

一体、どうしたんですか?と聞く女性に、恥ずかしながらもざっと事のあらましを説明した。少し無言で考えたあと、私ではどうにもできないからツアコンのひとを呼んできます、と言い残し、女性は2階へ戻って行った。

それからしばらくロビーには誰も現れない。壁にかけられた時計の音がとても大きく聴こえる。登りかけたクモの糸がちぎれそうになっているのを感じる。この糸がちぎれて落ちる底は、やはりカンダタ同様、地獄なのか。お釈迦様はそれをご覧になられて悲しげな顔をされるのか。

不安ばかりが大きくなる。やはり頭のおかしい人と思われて、完全に引かれてしまったのだろうか。今頃ツアコンの人に、変な日本人にからまれちゃって困ってます、なんて助けを求めに行っているのではないのだろうか。

悶々と苛まれること15分、ロビーで小さくなっていた僕に、どうしたんですか?と日本語の声がした。

顔を上げると、30代前半らしき日本人の男の人が立っている。僕がツアコンの者ですが、そういってその人は目の前のソファにふわりと座った。

僕はここに来るまでの道のりと、自分の置かれた状況をその人に話し始めた。

12につづく)

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28

エリトリアで借金を 10

posted on 6月 28th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 9 つづき)

翌朝、日の出とともに目が覚める。

この時期のアスマラは毎日雲ひとつない快晴だ。オレンジをひとつだけ食べ、良いアイデアも浮かばないまま街に出る。

こうなったら数打ちゃ当たるかも、とまたしてもヨーロッパからの観光客に手当り次第に声をかけてみる。当然だがけんもほろろ、芳しい答えは得られない。もしかしたら、とエリトリア人にも声をかけてみる。お金貸してくれたら、僕ヨーロッパに一度行って、お金引き出してまた戻ってきますから、と。急ぎ足の旅でエチオピアもエリトリアもろくろく観ていないので、お金持ってまた来るのも良いかな、なんてのんきなことをこのときは本気で考えていた。

何連敗したのだろうか、いつの間にか太陽が西に傾き始めたころ、あるスイス人のカップルに声をかけた。

やはり当然のことながら、僕たちは貸せないな、と断られてしまったのだけれど、去り際に、そういえばさっき日本人らしいツアー客を見かけたよ、と気になるひと言を残して行った。

日本人のツアー客?独立したばかりのこの国で?

半信半疑、もしかしたら韓国の建設会社の人たちのことなのかも、なんて思いながらも、この状況でのそのひと言は僕にとっては天から垂れて来たクモの糸、あたってみるしかない、と大急ぎでツアー客が泊まっていそうな大きめのホテルに飛び込んだ。

ホテルの受付係は優しそうなおじさんだった。ここに日本人のツアー泊まってる?と鼻息荒く飛び込んできた僕の勢いに不穏なものを感じたのか、泊まってません、と妙にオドオドしながらおじさんは答えた。

ここではないのだ。でもアスマラでツアー客が泊まれるような大きなホテルはそれほど多くはないはずだ。

電話帳貸して下さい、そうお願いした僕に、おじさんは変わらずオドオドしながらも即座に分厚い電話帳を持って来てくれた。ホテルの欄を開き、おじさんに、大きなホテルはどれですか、と訊ねる。

おじさんが指した電話番号を、片っ端からかけてみる。電話一回の料金がそのままオレンジ4個分だ。縮まるタイムリミットを頭の隅で気にしながらも、一軒目、二軒目、三軒目とかけ続ける。どこも、ここにはいないよ、という返事だった。財布が空になるまで電話してやれ、と人ごとのような、やけっぱちのような気持ちで回転式のダイアルを回す。

七軒目にかけたとき、受話器の向こうの人がちょっと陽気な感じで、ああ、うちに泊まっているよ、と言った。

(つづく)

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6月
23

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posted on 6月 23rd 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 8 つづき)

日がな一日、街をうろつき、観光客を見つけては声をかける。

フランス、スイス、イギリス、などなど20組ぐらいに声をかけ20連敗ほどもしただろう。いつの間にやらアスマラの一等地に立つ中国大使館の前に立っていた。

今思い返せば、血迷っているとはこういうことかと背筋が冷たくなるのだが、そのときの僕は「溺れる者はわらをもつかむ」という言葉の体現者そのものだ。遠い異国のエリトリアでは中国も日本も親戚のようなもの、アジアのお隣さん同士なんとか相談に乗ってくれるんじゃないかと、ふらふら門をくぐろうとした。

エリトリア人の門番らしき男に、何の用ですか?と止められて、かくかくしかじかでお金借りたいんだけども、と話したところ、それでなぜ中国大使館が日本人であるあなたを助けられると思うのですか?とやさしく諭された。

そう言われればその通り。返す言葉が無い。わらをもつかもうとしたのです、なんて余計なことは言わずにトボトボとその場を立ち去った。

また別の日は、僕を韓国人だと思った人が、韓国の建設会社が郊外で工事してるよ、と教えてくれた。性懲りもなく、韓国も日本もお隣同士の親戚同士、と都合の良い理屈をつけて三時間の道を歩く。着いたところはなにかしらの公共設備の建設現場。確かに韓国の会社らしくハングルの看板などがちらほら見えるのだが、働いているのはエリトリア人ばかりで韓国人は見当たらない。そのうちだんだん頭も冷静になってきて、これは中国大使館の繰り返しと確信し、情けないことこのうえないがそのまま三時間を引き返す。

そうして一日、また一日と、出口がまったく見えないままに時間だけが過ぎて行く。日々の支出は安宿とオレンジ数個のみなのだけど、それでも日に4ドルぐらいは着実にお金は減っていて、5日が経ったころには財布の中身は7ドルぐらいになっていた。

夜、重い足を引きずって宿に戻る。オレンジを2個食べて、むりやり空腹をごまかした。なにもしていないという時間が最も心が重くなるときで、困ったときの神頼み、生まれて初めて神様仏様、さらにはご先祖様にも拝んでみたりする。そんな不安を抱えながらも、一日歩き続けたせいで夜になるとちゃんと眠くなる。神様仏様ご先祖様、と呟きながらいつしかどろりとした眠りに入る。

明日、何の成果も得られなければ、空きっ腹を抱えて街角で野宿、ということは避けられない。

10につづく)

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18

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posted on 6月 18th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 7 つづき)

その日のうちに、来た道をそのまま戻りアスマラに帰って来た。

ハジスの家にもう一度、と思ってみたのだが、ハジスの家がどこだかわからない。ものごとうまくいかないときは全てがうまくいかないもので、ハジスが、手紙をくれ、と言って僕に手渡した住所を確認すると、P.O BOX、いわゆる郵便局の私書箱あてになっていた。

しかたないのでハジスの家に戻るのはあきらめて、最も安いと思われる宿を取る。食事はもちろんオレンジのみだ。

なにを差し置いても、まずビザを取りに行かないとならない。アスマラに戻った翌日、まずはエジプト領事館を訪れる。確かビザは14ドルとかで、ちょっとほっとしたのを憶えている。一日待って、その次はサウジのビザだ。以前から、サウジアラビアはイスラム教徒以外のビザには厳しい、と聞いていた通り、トランジットのビザしか出せないという。やはり一日待ち、痛い40ドルほどを払ってビザを受け取る。有効期限は入国後36時間。

さあ、これでビザは整った。これで十分な資金が手元にあれば、マサオアに向け再出発、ということになるのだろうが、悲しいことに手元には20ドルぐらいしか残っていない。マサオア発の船にも乗れないのだ。

とにかく、お金をどうにかしなければ。焦ってばかりの頭をむりやり整理して、どうすれば良いか考えてみる。

日本の家族に送金を頼む。これはダメだ。できたばかりの国で、送金が何日かかるかわからない。無事に届くかどうかさえ危ういし、国際電話をかけた時点で僕が数日生き延びるためのわずかなお金さえなくなってしまう。

大使館に頼る。これもダメ。エリトリアに日本大使館がない。エチオピアにはあるのだが、そこまで行くお金もない。第一、大使館がお金を貸してくれるのかどうか。

働く。例えばここで100ドル貯めるのに、一体どのくらいの時間がかかるのか。こつこつやっているうちにエリトリアのビザさえ切れてしまうだろう。

もう、こうなったら考えててもしかたない。僕は街に出て、数少ないヨーロッパからの観光客に声をかけ始めた。

どこから来たんですか?ああ、ドイツ?ぼくもこの後ドイツに行こうと思っていますよ。それで相談なんですが、お金貸してもらえませんか?ドイツに行ったときに返しますので、、、。

これでイエスと言ってくれる人がいれば、それは天使のような人物なのだろう。

につづく)

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12

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map Asmara to Massawa

エリトリアで借金を 6 つづき)

完全に固まってしまった僕に、ボスの言葉が追い討ちをかけた。

エジプトのビザも持ってるか?

しまった。船のことばかりに執着しすぎて、大きなミスをしでかした。サウジアラビアに行くつもりは全くなかったので、ビザを持っていないのは仕方のない話だが、エジプト行きの船を探しにきたのに、エジプトのビザを持っていない。

僕の無計画なだらしなさは、目の前のことしか見えなくなるのが原因だ、と普段から思っていたのだが、実は目の前のことも見えてはいなかった。自業自得の悲しさで、誰のせいにするわけにもいかず、悔しさだけが募ってくる。答えはわかりきっていたのだが、それでも一応、ビザがないとダメなのか?と聞いてみる。ホントはビザがなくても行けるでしょう?と。

それまで落ち着き払っていたボスは、僕の国際ルールを無視した質問に、よっぽど不意をつかれたのだろう。初めてわかりやすい狼狽を見せ、いやいやそれは決まりだからと、なんとなく目の前のアジア人を哀れんだ目で見た。

考えがまとまらないまま、うわのそらでボスにお礼を言って、外に出た。目の前はエメラルドグリーンのとんでもなく美しい海だ。そんな一生に一度出会えるかどうかという景色を前にして、残念なことに僕の気持ちは重かった。

さあどうする?このままエジプトに行くのはムリだ。船もないしビザもない。密航?吉田松陰じゃあるまいし。賭けには負けた。負けたが、僕はまだ生きている。とにかく前進しなくては。

もうこの時点で、すべきことはわかっていた。アスマラに戻り、サウジとエジプトのビザを取る。ビザがいくらか知らないが、それでお金はほぼなくなるだろう。船のチケットは買えなくなるから、お金をどうにかしなければならない。マサオアに再び戻り、船に乗りジッダへ。ジッダで船を乗り換えて、スエズ。スエズに着けば、イスラエルはもう目と鼻の先だ。

そうする以外にないことは、回転してない僕の頭にも明らかだが、お金をどうにかする、という部分が最も肝心で、その肝心の部分がまったくの霧の中、どうするべきかわからない。

とにかく、一刻も早くアスマラに帰らなければ。

町の中心に戻ると来たときのバスがまだ停まっていた。気の良い運転手に不思議な顔をされながらも、そのままバスに乗り込んで、まったく同じ道のりを、今度は山を登って行く。

につづく)

A:Asmera  B:Massawa

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