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また起こってしまった。今度はパリで。
規模は全く異なるが、こういった殺人が行われるとやはりニューヨークの同時多発テロを思い出す。詳しくは「ある日のできごと」に書いたので繰り返しは避ける。
「文明の衝突」というワードが広く知られるようになったのはあれからだ。資本主義と民主主義を両輪に発展し続ける西欧社会(アメリカ+西ヨーロッパ)と、そこから落ちこぼれふるい落とされたイスラム世界という対立構造。面と向かっては西欧に敵わないイスラム世界の過激派(あくまで過激派だけだが)は地下に潜り世界に拡散した。
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ここ最近アメリカのTVドラマ「グッド・ワイフ」を観ている。
法廷モノの骨太なストーリーももちろん面白いのだが、シーズン2から出演しているマイケル・J・フォックスを観たいのが大きな理由だ。
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(3のつづき)
僕は自分がした非を悟り、改めて単語をツギハギしたギリシャ語で、ギリシャ語、わかりません、英語で、聞いてもいいですか?とひと言謝ってから訊いてみた。そうだ、それでいいのだ、と何度か大きく頷いて、じいさんは道を丁寧に教えてくれた。
怒られはしたものの、僕はこのじいさんにとても爽やかなものを感じた。ギリシャにいてギリシャ人に話しかければ、ギリシャ語を使うのは考えれば当たり前だ。ギリシャ語ができなければ最初のひと言、英語で訊いてもいい?ぐらいはギリシャ語で言うべきだっただろう。それを無視して当然のように英語で話しかけたことはじいさんの誇りを傷つけた。誇りを傷つけられたじいさんは、なってねえじゃねえかこのやろう、と怒った。それだけの話だ。
見知らぬ外国人に突然英語で話しかけられて、やっぱり英語は世界共通語だからね仕方ないねごめんね英語あんまり上手じゃなくって、なんてギリシャのじいさんは決して言わない。ギリシャにいるんならギリシャ語しゃべれギリシャ人なめんじゃねえぞこのすっとこどっこいが!とこう言う。
すっとこどっこいと言ったかどうかは定かでないが、そういうじいさんの矜持が、僕にはとても好ましいものに思えたのだ。
じいさんはきっとギリシャのことが大好きなんだろうと思いながら自転車を走らせた。
マジョリティでいることは、マイノリティに対して鈍感になることだ。マイノリティはマジョリティが考える以上に敏感で繊細なものだ。それはいくつかの国でマイノリティになった経験から断言できる。マジョリティの鈍感さに圧されてマイノリティが小さくなってしまうこともよくあることだ。
だがマイノリティであることは単に「数が少ない方」にいるだけのことであって、悪いことではないしましてや罪なんかでもない。マジョリティを強いてくる鈍感連中には、マイノリティなめんじゃねえぞこのやろう、と堂々と言ってやったらいい。ギリシャのじいさんが僕に対して言ったように。
もうひとつ補足すると、アテネの町中でパトラへの道順を訊いたのは、言ってみれば新宿の道ばたで名古屋までの行き方を尋ねるようなものだった。正確な道順を簡潔に教えてくれたじいさんはやはりただ者ではなかったのだろう、とイタリアへのフェリーに乗ってから考えた。
(おわり)
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(2のつづき)
話を戻すと、世界には言語的マジョリティとマイノリティがある。マジョリティであればあるほど他国異文化の人間が自国の言葉を理解することに意外性はなく、むしろ当然のこととして受け止める。マイノリティ度が強ければ、外国人が話す自分の母語を驚きと喜びで迎え入れる。
どっちが楽しい人生なのだろう?
比較するナンセンスを承知で、たまにそう思うことがある。英語で苦労した10代後半から20代前半は、英語圏に育っていればこんな苦労はしなくてすんだのに、とときどき考えたことは確かだ。だが今になってみるとなんとなく言語マジョリティというのはちょっと退屈なのかもしれない、と思う。もし英語圏の人間として生まれていたらと想像してみるに、世界中どこに行っても自分の言葉を理解する人間がいて、自分の言葉で書かれた新聞や本も豊富に手に入る。テレビも映画も音楽も英語のものがある。どこの誰が英語を話していても驚かないし従って特に嬉しくもない。
これって果たして楽しいことなのだろうか?
また話は飛ぶが、ギリシャでのことだ。アテネに着いたとき、思いつきで自転車を買った。計画も経験も自転車の知識さえもない単純な思いつきで、アテネからイタリアやフランスを自転車で旅したら楽しそうだ、と考えただけだった。地図を見ると、西のパトラという港町からイタリアのブリンディシまでフェリーが出ている。まずはパトラまで行こう。買ったばかりの自転車に荷物を括りつけて、いざ出発という段になって道に迷った。側にいたヒマそうにしているじいさんに、何も考えず英語で道を尋ねると、彼は顔を真っ赤にして烈火の如く怒りだした。僕はギリシャ語は全くわからないが彼が言わんとしていることは伝わってきた。
お前はギリシャにいながらギリシャ人に向かって英語で話しかけるのか!?
そう言ってじいさんは激怒していたのだ。
(4につづく)
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(1のつづき)
グジャラート人である彼らが味わうその類いの喜びと驚きは、日本人である僕にもよくわかる気がする。イギリス人は理解できないかもしれない。母語というのは人間のアイデンティティの根幹に密着しているものだ。外国人が自分の母語を喋ることは自国に対しての好意的な興味を意味する。非ネイティブがひとつの言語を習得するには多大な労力と時間が必要なので、単純な興味以上のことかもしれない。その外国人は自分のアイデンティティの根幹を認め、文化に対して敬意を持っていることを間接的に表現していることになる。
逆に母語を否定されることは自国と、その文化と、ひいては自分を否定されることと同じことなのだ。世界のいたるところで、しばしば歴史上で、マジョリティや侵略者はこのことを悪用した。戦争や紛争の相手国のアイデンティティを奪って自国化する方法として、母語の使用禁止は常套手段のようだ。世界史に詳しいわけではない僕でも、日韓併合で日本が韓国にしたことや、ドイツがチェコに強制したドイツ語化、アメリカがネイティブ・インディアンの言語を使用禁止にしたことなどが思いつく。
「自由の国」アメリカの東海岸を車で旅行中に、チェロキー・インディアンのおばさんに出会ったことがある。ノースカロライナのチェロキーでのことだ。仲良くなって、何も知らなかった僕に彼女はチェロキー・インディアンの歴史を丁寧に教えてくれた。驚くべきことに、アメリカではクリントンが大統領に就任するまで、つまり歴史の物差しでは比較的最近まで、チェロキー語を禁止されていた。長年、学校で習うことはおろか、公の場で使うことも禁じられ、徐々にチェロキー語を話せる人間が減っていったという。僕が会った当時は、確か1998年だったと思うが、チェロキー語を母語として使いこなせる人間は、酋長である彼女の父親ただひとりになっていた。93歳のおじいちゃんが亡くなってしまったら言葉も失われてしまうので、大急ぎで子供たちに教えてもらっているの、と彼女は言っていた。100年前の話ではなく、十数年前のことだ。
クリントンは過去のインディアン政策の誤りを認めて、償いという意味を含め、チェロキー・インディアンにカジノの経営権を認めた。そのおかげでチェロキーは少しずつ豊かになってきているけど、全てはまだまだこれからね、と言って去って行ったおばさんの車はピッカピカのグランド・チェロキーだった。。。
これネタではないです。本当の話です。
(3につづく)
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バックパックを背負ってあちこち旅して廻っていると、世界には強い言語と弱い言語があることに気づく。
強い言語の筆頭はもちろん英語で、そのあとにはフランス語、スペイン語、中国語などが続くのだろう。
世界中ほぼどこでも、生存に必要な程度の英単語を知っていればなんとかなる。例えばエチオピアで、公用語であるアムハラ語を全く知らなくても、中学で覚える程度の英語があれば旅はできる。イギリスとは遠く離れた地で、エチオピア人と日本人が英語で意思の疎通をしているというのは改めて考えてみればとても不思議なことだ。
だいたい強い言語の国で育った人間は、「言葉がわからない」ということに対して少し鈍感なところがあると思う。半年ほどイギリスで働いていた経験からいうと、イギリス人は程度の差こそあれ外国人でも英語を喋れて当然、と思っている節がある。世界総英語スピーキング、というのが無意識に近いところに刷り込まれているようなので、イギリスにいながら英語が下手な人間に対しては手厳しい。非英語、非ヨーロッパ語圏の人間にとって英語がどれほど話しにくいものかこれっぽっちも斟酌しない。
対照的に弱い言語の国。日本語もこの中に入るだろうが、外国人が自分のとこの言葉を理解するなんて露ほども期待していない。わからないのが当たり前、と思っているから例えば外国人が日本語を流暢に話す場面に遭遇したりするととても驚くし、少し嬉しくなって、「なんで日本語わかるの?」なんて話しかけたりもする。
近年僕がしばしば訪れるインドのグジャラート州には、グジャラーティと呼ばれる言語がある。インドには州や地方によってそれぞれ異なった母語があり、ヒンドゥー語は公用語として「習う」。隣の州に行くとグジャラーティは通じない。世界的に見るとヒンドゥー語はそこそこ強い言語なのだろうが、グジャラーティは最弱に近いところにある。
外国人である僕が、ここでほんのちょっぴりのグジャラーティを話すと、グジャラート人はめちゃめちゃ面白いギャグでも聞いたかのように喜んでくれる。グジャラート人の友人ふたりの会話を聞いていて「トーキョー・ドゥニャーニョ・モガマモゴ・サヘール・チェー」という短い文章を覚えてしまった。口にする度に鉄板ネタのように大ウケする。「東京は一番物が高い都市です。」という特に面白くもないものなのだが、ヒンドゥー語ならまだしも、外国人がグジャラーティを理解するなんてこの世にありえるはずがないと思っている彼らからすると、僕がそれを口にするだけで笑いと喜びの対象になり得るらしいのだ。
そしてそれをいつまでも覚えていて、ことあるごとに「あれ言って!」。僕が言う度に飽きもせずに楽しそうな嬉しそうな顔をする。初対面のグジャラート人が混ざっていたりすると本当にわかりやすく「マジで?」というような驚きの表情を浮かべる。僕のグジャラーティはいまだ片言にもなっていない貧弱な代物だが、「トーキョー・ドゥニャーニョ・モガマモゴ・サヘール・チェー」だけはネイティブのレベルに到達したと胸を張れる。
(2につづく)
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(3のつづき)
“Subway to Jamaica”がデューク・エリントンのヒット曲「A列車で行こう」をベースにして書かれたものだということは、酒で濁った僕の頭でもすぐにわかった。
「急いでハーレムに行きたきゃA列車に乗ろう」というその歌詞から着想を得た話なのだ。
NYの地下鉄は、AもEも途中までは同じ線を走る。
だがAがまっすぐハーレムに向かう急行列車であるのに対して、Eはマンハッタンの真ん中あたりで急カーブを描き、クイーンズの東のほうまで行ってしまう。Eに黙って乗り続けていると終点は「ジャマイカ」という名の駅だ。
甥っ子は飲んだくれて電車の中でうとうとして、気がついたらジャマイカまでたどり着き、やっとのことでハーレムに戻ってきたらもう空は白み始めていて、部屋にはかんかんに怒ったおじさんが待ち構えていた、というただそれだけのお話だ。ちなみに僕自身も酔っぱらって全く同じことをやらかしたことがあるが、それは今は関係ない。
ラングストン・ヒューズが「A列車で行こう」というデューク・エリントンの曲を土台にして短編を書いていた。その事実は、酒のおかげで理性の濃度がいつもより薄くなった僕には、喜び以上に、何かしらの啓示のような重々しさで受け止められた。すなわち、「デューク・エリントンは孤独ではなかった」のだ。
今振り返ってみても、これがまったく筋の通らない話というのはわかっている。
そもそもデューク・エリントンが孤独な人生を送ったという話を過去に聞いたことがあるわけではないのだ。僕はまったく自分勝手に、あれほど美しい曲を作れる人間は孤独な人生を送ったに違いないと決めつけ、デュークの殺伐とした人生のなかに、ラングストンが湧泉のように潤いを与えていたのだ、と信じ込んだ。そんな意味不明の思い込みをされた当のデュークもラングストンも迷惑以外の何ものでもないだろうが、とにかく思い込んだ。
そして、なぜかとても上目線で、デュークのために泣きたくなるくらい幸せな気分になってきた。
じっとしていられない。バーテンダーに紙とマジックをもらい、でかでかと書き込んだ。”DUKE IS NOT LONELY ‘CAUSE LANGUSTON IS THERE.”(ラングストンがいるからデュークは孤独ではなかった)
そのまま紙を四つ折りにして掌の中に入れ、バーを出た。とても重大な新発見をしたかのように気分は高揚していて、これを誰かに伝えたくて仕方がなかった。
少し遠回りして、ヒューズのことを教えてくれたあの女性のアパートに寄り道して、少し迷ってから四つ折りにした紙をドアについたポストに投函した。そのまま我が家まで歩き、高揚感に包まれたまま眠った。
まったく意味を成さない酔っぱらいの所業と言ってしまえば確かにそうだった。
その後一年ほどで僕はハーレムを離れ、さらに三年ほどでアメリカを離れた。過去住んでいた場所なのに、今ではとても遠い場所のように感じることも多い。
もしかしたら一人で高揚感に包まれながら飲んでいたあの夜が、僕がハーレムに最も近づけた瞬間だったのかもしれない。
“DUKE IS NOT LONELY ‘CAUSE LANGUSTON IS THERE.”
そう書かれた紙片はあの女性の日記帳の一ページに貼られたそうだ。
(おわり)
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(2のつづき)
ある夜、友人と飲んだ帰り道。
なぜだか急にもう少しだけ飲みたくなって、ひとりでバーに入った。
一人で特にすることもないので、それほどうまくもない酒を片手に”Best of Simple”を開いて読み始めた。その頃は本の半ばを少し超えたあたりを読んでいた。短い話をいくつか読んだところで、”Subway to Jamaica”という題名の一話に出会った。
その不思議な題名の話には、シンプルさんの甥が登場する。
若くて、やんちゃで、もうはっきりとは覚えていないがアーカンソーだかの田舎から出てきたばかりの甥っ子を、シンプルさんは居候として預かっている。ある夜その甥っ子がいつまでたっても帰って来ないので、やきもきしながらシンプルさんは待っている。やっと甥っ子が帰ってきた頃にはもう外は明け方で、このまま遊び人になってしまうのではないかと危惧したシンプルさんは彼を厳しく叱りつけることにする。甥っ子は怒ったおじさんに対して弁解する。遊んでいたことは遊んでいたが、こんな朝方まで遊んでいた訳じゃない。夜に遊びを切り上げて帰って来ようと地下鉄に乗った。いつものラインに乗ったはずなのに、何時間も乗り続けて気づいたらジャマイカという駅に着いていた、、、。
シンプルさんはその甥の言い訳を聞き、怒る気をなくした、と「私」に語る。こいつはただ電車を間違えただけなんだ。ジャマイカはEラインの終点じゃないか。そして甥に諭す。だから言っただろう、ハーレムに急いで帰ろうと思ったらA列車にのらなきゃなんないんだ。
それで終わり、ただそれだけの話だった。だが不思議なことに、読み終わった僕はつかみどころのない大きな高揚感を感じていた。今振り返っても、酔っぱらっていたからとしか考えられない意味不明の高揚感。僕は”Subway to Jamaica”を読み、なぜだか「デューク・エリントンは孤独ではなかった」と強く感じて、うれしさでいっぱいだったのだ。
(4につづく)
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シンプル・イズ・ベスト
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(1のつづき)
後日、教えられた本を手に入れ読んでみた。
ラングストン・ヒューズはハーレム・ルネッサンスを代表する作家で、もちろん黒人だ。日本では「ジャズの本」の作者として知っている人も多いのかもしれない。その時代以前にはあまり見られなかった、アメリカの黒人自身の視点から、暖かく土臭い情熱を持って書き続けた作家だ。
語弊を恐れずに言えば、現在の日本ではもう半ば忘れ去られた作家なのだろう。本屋や図書館でこの名前を見ることもあまりないが、アメリカでは死後40年以上経った今でも、命を絶やす事なく読み継がれている。
などと取ってつけたように解説してみたが、全てこれは後で知った事柄で、僕がヒューズの存在を知ったのはこのときが初めてだ。僕と同世代の黒人女性が教えてくれたこの”Best of Simple”という本には、この作家が長い月日をかけて書き続けた、ハーレムに住む「シンプルさん」という名のおじさんが主人公の短編ばかりが幾編も集められていた。いわゆるシンプルさんシリーズのベスト盤、といった内容の本だった。
シンプルさんというおじさんは果たしてどのような人物かというと、偉くない金もない見た目もパッとしない、特に賢くもない、という実際にハーレムで普通によく見かける、昼間からくだを巻いているようなおっさんだ。だがこの決して人は悪くないおっさんが、暖かいような情けないようなことをボヤキながら自らの過去や黒人であることの苦しみや楽しさを知人である「私」に語る。それがヒューズが遺したシンプルの物語だ。
しばらくはどこへ行くにも持ち歩いて読み続けた。物語は語り手であるシンプルさんと聞き手の「私」の対話で進んでいく。シンプルさんは酒飲みなので、たいていはハーレムの酒場で一杯やりながらという設定だ。シンプルさんの言葉は、小さく笑ってしまうぐらいくだらないものだったり、ちょっと気分が暗くなってしまうぐらいのシビアな話だったり様々だ。言葉の対象も話によって様々と変化していくが、黒人であること、という一点は決して揺るがない。
読み終わるまでの数日間は、地下鉄の中、喫茶店、バー、ベッドの中、ときには街を歩きながら、時間が許すたびにペーパーバックの本を開きシンプルさんの言葉に聞き入った。アメリカの黒人であるということはどういうことなのかと想像を巡らせながら。
(つづく)
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ニューヨークに7年間ほど暮らしていた。
絶えず転々とするような引っ越しの多い7年で、街のいろいろな地区をぐるりと住んでまわったのだが、そのなかでハーレムを住所にしていた2年間がある。
言うまでもなくハーレムは住人の多くが黒人の、文字通り黒人の街で、白人はもとよりヒスパニックや僕のようなアジア系はこの街では少数派だった。
住み始めてしばらくすると、近所に呑み友達のような友人ができた。彼らは酔うと、いや酔わなくても黒人であることの誇りと、黒人であることの哀しさについて声高に話し、ときに議論が白熱してケンカのように怒鳴り合ったりもするような若者たちだった。
マルコムXやキング牧師についてはそれ以前から知っていたが、ローザ・パークスやマーカス・ガーヴェイや、その他黒人の長い戦いにまつわる様々な名前を彼らの口から初めて聞いた。
ハーレム・ルネッサンスという言葉を知ったのもこの時期で、たまたま入ったバーでデューク・エリントンの音楽がかかっていて、そのとき一緒にいた女性の口から出てきた言葉だったように覚えている。
その言葉を知らなかった僕に、彼女は説明してくれた。ハーレム・ルネッサンスというのは1919年から始まり十数年つづいた、黒人文化が開花した全盛期だ。文学、音楽、絵画などで後に名作と呼ばれるものが次々と誕生して、黒人の意識と環境が激変した時期でもある、と。
デュークもビリーもベッシーも、みんなハーレムの子供たちなのよ。
少しカッコつけて、全黒人を代表するようにその彼女は言った。
理由は今でもわからないが、僕はハーレム・ルネッサンスというその言葉が、とても大きなものにも小さなものにも、泥臭いような汗臭いような、なんとも判別しがたいドロドロしたものを表しているような落ち着かない気分になって、呑みながら長いこと彼女に質問し続けた。
途中で面倒くさくなったようで、じゃあこの本読みなさい、と言いながら彼女は、バーのナプキンにボールペンで「ベスト オブ シンプル ラングストン・ヒューズ」(Best of simple, Langston Hughes)と書いて渡して来た。
(2につづく)
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