Posts Tagged with: イスラム
また起こってしまった。今度はパリで。
規模は全く異なるが、こういった殺人が行われるとやはりニューヨークの同時多発テロを思い出す。詳しくは「ある日のできごと」に書いたので繰り返しは避ける。
「文明の衝突」というワードが広く知られるようになったのはあれからだ。資本主義と民主主義を両輪に発展し続ける西欧社会(アメリカ+西ヨーロッパ)と、そこから落ちこぼれふるい落とされたイスラム世界という対立構造。面と向かっては西欧に敵わないイスラム世界の過激派(あくまで過激派だけだが)は地下に潜り世界に拡散した。
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原理主義というのはおそらくどんな宗教にも存在するのだろう。
教典や聖典、成立当時の教えに対して盲目的と言えるほど忠実に生きるべき、それこそが宗教としての正解だと主張して譲らない原理主義は、現代の日本人の感覚からすると最も理解が難しい存在かもしれない。
そういった考え方はイスラム教に限らず、キリスト教にも仏教にも、おそらくヒンドゥ教にも存在する。
どんな宗教にも、長い時代を経たものには多くの分派や宗派が産まれて、考え方や教義も変化するのだろうから、「変化しないこと」「余計な解釈をしないこと」を信条にする派が存在しても不思議ではない。
原理主義が原理主義で生きていける世の中ならそれでいい。
ただその宗教の成立時点から世の中はだいぶ変わってしまった。2000年前、1500年前なんて時代から見れば信じられないくらい世界は狭くなってるし、いろいろな地域の多種多様な考え方や習俗が存在するのも僕たちは知っている。
イスラムの人々だって、外の世界、つまり欧米のキリスト教をベースにした社会や、日本のようなほとんど宗教というものを顧みることのない社会があることも知っているだろう。
そんな中での原理主義は、やはりカルトだと僕も思う。
原理主義というものを押し通そうとすればするほど、現実は軋んで歪み、弱い部分に負荷がかかりすぎて悲鳴を上げる。
いわゆる「ふつうの」イスラム教徒は、きっとそういった現実と宗教の間で、迷いながら悩みながら生きているはずだ。
もちろん現実も大事だし、親や先祖から受け継いできた宗教も大切だ。
その間で右往左往しながら生きているのが現代のイスラム教徒なんだろう。それは僕らが仕事や恋愛や日常や、とにかくそういったことの間で右往左往しながら生きているのと全く変わりはない。
そんなことを、上に掲げた写真に考えさせられた。
写真や映像というものはこういったことを伝えるためにあると切実に思う。
世界を脅迫するために映像を利用するなんて間違っている。
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シリアとイスラーム国のことを考えることは日本とオウムを考えることだ
ある日のできごと 5
写真に関しての覚え書き
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撮影:イエメンの写真家ブシュラ・アルムタワキ
イスラーム国により殺害されたジャーナリストの後藤健二さんのことを考えている。
後藤さんの死に関しては本当に残念というひと言に尽きる。
ネットで流れてくる情報を垣間見ると、そこには心ないというか情けないというか、とんでも発言も多々あって、暗澹たる気分にさせられる。
そんなこと言うなよ、と悲しい気分に落ち込みながら、そこには昨今問題になっているヘイトスピーチと結びついた短絡的な思考回路が大いに関係しているようで気持ちが悪い。
この気持ち悪さは過去に経験した覚えがある、とふと思う。
911同時多発テロ直後のアメリカ。
僕はその現場であるニューヨークに住んでいたのだが、アメリカの地方都市で、ムスリムを対象にした集団暴行、いわゆるリンチが頻発した。
極端に多国籍な街として機能しているニューヨークでこそなかったものの、「自由の国」として世界各国を「指導」しようというような国で、このような理解と共感が欠如した超短絡的な事件が、ひとつやふたつではない規模で起こるということが、アメリカ人の本質というか、もっと言えば人間の残酷な本質を覗き見してしまったような気持ち悪さを感じさせてしかたなかった。
こういったことはもうアメリカをはじめどの国のメディアでも報じられることは皆無なはずだが、僕にとっては911の事件自体と同じぐらいの比重で今でも胸の中にしこりとして残っている。
当たり前だが、911を起こしたアル=カイーダとイスラム教は全く別物だ。
そしてイスラーム国とイスラム教もまた別物。
この件に関しては、友人から流れてきたリンクがとても納得のいく説明をしていた。
「イスラーム国とイスラム教の関係は日本におけるオウム真理教と日本仏教の関係と同形である。」
ISISの存在が突きつけるアラブ諸国の深刻な矛盾 | 橘玲 公式サイト当時ほぼ全ての日本仏教がオウム真理教を認めなかったわけだが、原理主義という点で、つまり大元の教義に忠実であるという点では、日本仏教はオウム真理教に勝てなかったのだ。
スナックで酒飲んで妻も娶って、なんてことしてる日本の坊さんはそりゃ仏教の大原理からしてみれば逸脱も甚だしいわけで、しかも周りもみんなそんな環境なもんだから原理原則からとんでもない程度で破戒しているわりには、破戒してるという後ろめたさや自責もない。
ただ少しは日本の坊さん自身も自覚はあるんだろう。だからオウムのようなハードコア仏教を前にして有効な言葉を発せられなかったんじゃないか、とこれはほぼ先のリンクの受け売りだが、僕も全く同感である。
そしてこれがイスラーム国とイスラム教の現在の関係でもある、と。
宗教というものの性質上、よりハードコア(原理主義)であり、よりファナティック(狂信的)である方が信仰の強さという面では優れているように見える。
例えば日本の宗教関係者が集まって、日本の宗教はお互いに対して寛容なんです、といった発言をしている場面にたまに遭遇するが、確かにそれは事実であると考える。
ただそれは当事者たちが胸を張って言うように、日本的に変質した宗教の長所でもあると同時に、日本では宗教が宗教としての力を失ってしまったことの証明でもあると思うのだ。
自分たち身内以外の世の中すべては敵であり、私たちは迫害されている、そう思っている宗教の方が強い(強いというのは過激という意味での強さであって、根源的な強さのことを言ってはいない)と僕には思える。
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2週間、再びインドに行っていた。
一昨年から、アーメダバードという中都市からさらに車で一時間ほど走った、カロールという名の村を訪れている。
インドに来る時はいつもここに来て、ラオさんという一家の家にお世話になっている。
詳しい話は別の機会にするとして、滞在中のある日、一家のお母さんに「日本の大統領は誰?」と聞かれた。
「日本に大統領はいないけど、首相はカンという人だよ。」と答えると、意外にも「日本の首相はイスラム教徒なの?」という質問が返ってきた。
カンという名前がイスラムに多いカーンという姓だと思ったようだ。
瞬間、僕の想像の翼は飛躍して、諸大臣を引き連れて首相公邸の階段の先頭に立つキラー・カーンをイメージしてしまった。
周囲が燕尾服で固めている中心で、ハゲ頭に赤いモンゴル帽をのせているキラー・カーン。
万が一、実現するようなことがあったら、停滞した日本の政治を劇的に変えることができるのだろうか?
良くも悪くも相当パンチの効いた首相になることは間違いない。
どうでもいいことなんだけど。
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