史上最高の寝相 マーティ・マクフライ
映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、僕がいまだに史上最高の映画だと思っている作品。
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夢枕獏「神々の山嶺(かみがみのいただき)」が映画化するという。
僕はまったく寝耳に水だったのだが、映画化するぞ撮影するぞというニュースは今年の前半から流れていたようだ。
主演が岡田准一、脇を阿部寛と尾野真千子。
ということは深町を岡田くん、羽生が阿部ちゃんということか。
すごいキャスティング。特に他人に心を開かない羽生の役を阿部寛がやるというのはとても楽しみだ。
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本文を読む
インド人は映画が好きだ。
僕もインドに行くたびにだいたい映画館を訪れる。チケットは日本では考えられないくらい安い。
歌って踊って、派手でおバカなボリウッド映画もおもしろいが、たまにシリアスな映画もインドでヒットしていたりする。
僕が実際に観た映画の中で、強烈に記憶に残っているもの、もう一度観てみたいものを備忘録的に書いておこうと思う。
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借りに行くほどでもないんだけどもう一度観たい映画がある
アボリジニを読むための3冊
弁護士マイケル・J・フォックス
また起こってしまった
最近では昔のようにビデオをレンタルしに店に行くということがなくなりました。
ネットでの配信サービスでほとんど事足りてしまうように、いつの間にかなっていますよね。
僕の周りではHuluやネットフリックスに相当ハマっているひとの話をよく聞くし、僕自身はアマゾンのプライムビデオに一時期ハマり、我ながら廃人疑惑を持つぐらい観つづけてしまいました。
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Last Mission | ラスト・ミッション
愛してはならない
ケビン・コスナー主演の映画「ラスト ミッション」が先週から公開されています。
この映画の、広告用ポスターを縁あって撮影させていただきました。
ケヴィン・コスナーの本物ポスターをパロったポスター3種。
関根勤さん・具志堅用高さん・蛭子能収さんの3氏を撮影しました。
上下の写真は新宿駅地下構内。他に映画館にも展示されます。
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本文を読む20日発売のSWITCHで、嵐の二宮和也くんを撮影した。
京都の太秦に出かけて行き、映画「大奥」の撮影現場にお邪魔しての撮影だった。
映画の撮影がひと段落した頃、二宮くんは僕のカメラの前にやって来て、ふわりとした感じで立った。
その「ふわり」が、肩に力の入っていない自然なもので、僕はその佇まいをとても美しいと思った。
周囲の友人からは、二宮くんは「ふつうの男」を演じるのがとても上手な役者なんだ、と聞かされていた。
「ふつうの男」が上手い役者は、決してふつうの男ではない、という考えてみれば当たり前のことを改めて実感する。
以前いっしょに仕事をした映画のスタッフが、「太秦のスタッフは頑固で気難しい」と何度も言っていた。職人肌なのだろう。そんな太秦の、照明部の親分が鼻息も荒く、「ニノにはおれが(照明を)当てる!」と、僕の撮影のために照明を組んでくれた。
親分も、映画俳優としての二宮くんのこの先を、楽しみにしているに違いない。
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本文を読む物心ついてから現在まで、一度でさえ整理上手になれたことがない。
毎日ちょっとずつ整理する、使ったモノはすぐしまう、必要ないモノは極力捨てる、そういった能力が完全に欠け落ちているせいで、ときとして思わぬところで探し物に時間を食ったり、逆に予想外のモノが予想外のところでひょっこり現れたりすることがしばしばある。
古いネガを探していて、また別のモノに出くわしてしまった。
* * *
ポスター撮影は僕が行い、公開は日比谷シャンテにて来月半ばから。
というのは真っ赤なウソで、いや、撮影は僕がしたことは本当だが、それ以外は全く架空の話である。監督である佐尾井貞之も実在しなければ、WAOWAOという会社が映像業界で稼働していればなんらかの問題がありそうだ。
実はこれは映画「パレード」(監督:行定勲 製作:WOWOW ショウゲート)の劇中に使用された映画ポスターなのだ。
竹財輝之助くん演じる丸山友彦という青年が出演している映画、という設定だ。ちなみに監督の佐尾井貞之という名前は「さおいさだゆき」→「ゆきさだいさお」である。
まるで韓流のようなタイトルやビジュアルにおける世界観は行定監督の遊び心が基底になっているのだが、それを踏まえ作製する側、デザイナーさんや撮影の僕やキャストの二人、は本気の全力投球である。
事前にデザイナーさんと綿密な打ち合せを済ませ、キャストに詳細な世界観を理解してもらい、最適と思われる機材を準備して、挑む。そういったことは、実際のポスター撮影となんら変わりはない。真剣である。
そんな真剣勝負ででき上がったポスターであるが、劇中にメインで使用されたモノはそれこそ遊びといえるようなサイズではなかった。
正確な寸法はまったく失念してしまったが、そのカットだけは横長で、横6m、縦3mぐらいの大きさがあったのではないだろうか。
日比谷シャンテの壁の、通常は縦位置のポスターが3枚分貼られている広告スペースに、「パレード」美術部ならびに演出部の手で掲げられ撮影された。
映画の中では短いシーンなので、比較的気にならずに流れてしまうのかもしれないが、一度ストーリーがわからなくなるぐらい集中して見ていただきたい。
* * *
映画の劇中に、撮影した写真が登場するというのはいろいろな意味で新鮮で、写真や映画に対する認識をその都度新たにしてくれる。
当たり前の話で恐縮だが、写真と映画(や映像)の違いはひと言で言えば時間軸にある。
1点を凝縮し凍結してその瞬間をつかむ、というのが写真の基本的な性格で、そこに他の瞬間が入り込む余地はない。
対して映画はある瞬間が地続きで他の瞬間にコネクトしていなければ成立しない。
撮影場所や撮影時間がどれだけ離れていようが、ひとつの瞬間は複数の他の瞬間に接続していることを前提としている。
撮影した写真が映画の中に現れるということは、このポスターのようにある1点の瞬間をつかんだ結果であるモノが、再び混沌とした時間軸の渦に放り込まれ、映画という時間軸の中で、新たに他の瞬間と接続し始めるという感覚を与えてくれる。
それが錯覚なのかどうかは横に置いといて、その感覚が普段の僕の写真に対して持つ認識を、少しだけ快く揺らしてくれることは確かなのだ。
映画を観ていて、あまりにも美しいシーンに遭遇して、「ここで止まったら良いのに!」と思うことがある。
写真を見ていて、その続きが知りたくて、「これが動いたら良いのに!」と感じることもある。
その感覚はまったくネガティブなものではなく、それが写真に対する愛情も映画に対する愛情も、そう思うたびに少しずつ深めてくれるような気がする。どちらも完全であって同時に不完全なのだ。
ただ自分勝手なもので、僕が撮った写真が映画に登場する瞬間は、例外なく「ここで止まれ!」と心の中でつぶやいている。
ちなみに、探し中のネガはまだ見つかっていない。
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