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前回「村人全員が芸術家! | ラグラジプール芸術村」の続きです。
ラグラジプールでは他にも多くの工芸品を作っています。
下の写真は、ヤシの葉を削って一枚の絵画にしたもの。
この絵柄はガネーシャ
上のような針でヤシの葉に絵柄を描いていき、煤(すす)を水で溶いた液体を刷り込むと、削った部分だけに色が着きます。
表向きはヴィシュヌ神の10度の転生の姿を描いたもの。
それをめくるとカーマ・スートラの絵柄が。カーマ・スートラは古代の性技(体位?)を描いた解説書。
この村では16才から両親が技術を教えはじめるそうです。男性も女性も、一家総出といった感じで制作しています。
少し話はずれますが、これがこの村での出生届兼身分証明書。生年月日や名前や住所などが刻まれているそうです。
置物なんかも作っていました。面白くてついついいろいろ買ってしまいました。
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村人全員が芸術家! | ラグラジプール芸術村
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プリーからおよそ15kmの距離にラグラジプールという村があります。
120軒ほどの家があるこの村は住民全員が絵画や工芸品で生計を立てる芸術家の村です。
ここはアーティストが集まってできた村ではなく、何百年も昔から親子代々受け継がれてきた村民の生業が芸術や工芸品なのです。親は子に教え、子は孫に教えて現在に至るのです。
パタチトラを描く少女
上の写真はパタチトラ(Pattachitra)と呼ばれるオリッサ州の絵画技法。
古くて着なくなったサリーにタマリンドの樹液を厚く塗り、さらにもう1枚サリーを重ねます。表面を石で削り、その上から自然素材の塗料で絵を描いていきます。
白は貝殻、黒は煤(スス)、青、黄、赤はそれぞれ異なる岩石を砕いて使うということです。
上はパタチトラにジャガンナート絵画。ジャガンナートとはオリッサ州を中心に人気のある神様(とその兄妹)
ボトルに絵を描いたもの。右はジャガンナート、左は、、、なんだ?
以前「村人全員が陶芸家! | プリーの陶芸村」という話を書きましたが、インドでは村中、地域一帯が同業者ということは珍しいことではない。
これはカースト制度が根底にある。
カーストはバラモンからシュードラまで(もちろんアウトカーストも)という縦の身分制度以外にも、ジャーティという職業や血縁で区分する横の制度もあるという。
現在では法律からカースト制度は消滅したが、人々の習慣や意識はそう簡単には変わらないようだ。
なにしろ何千年とかけてインド人の意識下に根付いて来たカースト制度を、表面的な法律でさばこうとしても相当な無理があるのである。
不可触民などに対する強烈な差別などは一刻も早く解消してほしいと思ったりもするのだが、こういった村、こういった文化が現在まで伝えられてきているのも、またカーストの一側面である。
長くなるので続きます。
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ベンガル湾沿いにあるオリッサ州プリーは、ヒンドゥー教の4大聖地のひとつです。
ジャガンナートという神様を祀るジャガンナート寺院があり、インド中から巡礼者がやって来ます。
この広大なインドで、しかも町を歩けば5分に1回は寺院に当たるというようなこの国で、寺院ベスト4に入るというのは相当なことでしょう。
当然この小さな田舎町プリーはこのジャガンナート寺院を中心に廻っており、巡礼客のためのホテルやレストランが数多くあります。
そして寺院から4kmほどの距離に、陶芸家ばかりが住む陶芸村があります。
これももちろんジャガンナート寺院があるからこそ。
つまり、
1, ヒンドゥの巡礼者は、寺院に巡礼するからには神に捧げる供物を持って行きたい。
2, 供物は果物や穀物や水などなど。
3, 供物を運ぶには、それを入れる壺や皿などが必要。
4, ということは陶器が必要。
5, しかも膨大な数の巡礼者がここを訪れるので、膨大な数の陶器が必要。
6, 親から子へ、子から孫へを数百年繰り返し(寺院の建設は12世紀)、一村全体が陶器を作る村、完成。
この村で作っているものは全て釉薬などを使用しない、素焼きの陶器です。手動でろくろを回してから、素早く形を整えます。
乾燥中
どの家も軒先で焼成前の陶器を乾かしています。
「泥をこねる」が大切なのはどこの国の陶芸も同じ
1分ほどでひとつ完成
女性陣も仕事中
陶製の馬も供物になります
窯で焼きます
焼き上がった後の釜
村の子供達。下校中!
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シンプル・イズ・ベスト 2
シンプル・イズ・ベスト
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(1のつづき)
後日、教えられた本を手に入れ読んでみた。
ラングストン・ヒューズはハーレム・ルネッサンスを代表する作家で、もちろん黒人だ。日本では「ジャズの本」の作者として知っている人も多いのかもしれない。その時代以前にはあまり見られなかった、アメリカの黒人自身の視点から、暖かく土臭い情熱を持って書き続けた作家だ。
語弊を恐れずに言えば、現在の日本ではもう半ば忘れ去られた作家なのだろう。本屋や図書館でこの名前を見ることもあまりないが、アメリカでは死後40年以上経った今でも、命を絶やす事なく読み継がれている。
などと取ってつけたように解説してみたが、全てこれは後で知った事柄で、僕がヒューズの存在を知ったのはこのときが初めてだ。僕と同世代の黒人女性が教えてくれたこの”Best of Simple”という本には、この作家が長い月日をかけて書き続けた、ハーレムに住む「シンプルさん」という名のおじさんが主人公の短編ばかりが幾編も集められていた。いわゆるシンプルさんシリーズのベスト盤、といった内容の本だった。
シンプルさんというおじさんは果たしてどのような人物かというと、偉くない金もない見た目もパッとしない、特に賢くもない、という実際にハーレムで普通によく見かける、昼間からくだを巻いているようなおっさんだ。だがこの決して人は悪くないおっさんが、暖かいような情けないようなことをボヤキながら自らの過去や黒人であることの苦しみや楽しさを知人である「私」に語る。それがヒューズが遺したシンプルの物語だ。
しばらくはどこへ行くにも持ち歩いて読み続けた。物語は語り手であるシンプルさんと聞き手の「私」の対話で進んでいく。シンプルさんは酒飲みなので、たいていはハーレムの酒場で一杯やりながらという設定だ。シンプルさんの言葉は、小さく笑ってしまうぐらいくだらないものだったり、ちょっと気分が暗くなってしまうぐらいのシビアな話だったり様々だ。言葉の対象も話によって様々と変化していくが、黒人であること、という一点は決して揺るがない。
読み終わるまでの数日間は、地下鉄の中、喫茶店、バー、ベッドの中、ときには街を歩きながら、時間が許すたびにペーパーバックの本を開きシンプルさんの言葉に聞き入った。アメリカの黒人であるということはどういうことなのかと想像を巡らせながら。
(つづく)
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シンプル・イズ・ベスト
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ニューヨークに7年間ほど暮らしていた。
絶えず転々とするような引っ越しの多い7年で、街のいろいろな地区をぐるりと住んでまわったのだが、そのなかでハーレムを住所にしていた2年間がある。
言うまでもなくハーレムは住人の多くが黒人の、文字通り黒人の街で、白人はもとよりヒスパニックや僕のようなアジア系はこの街では少数派だった。
住み始めてしばらくすると、近所に呑み友達のような友人ができた。彼らは酔うと、いや酔わなくても黒人であることの誇りと、黒人であることの哀しさについて声高に話し、ときに議論が白熱してケンカのように怒鳴り合ったりもするような若者たちだった。
マルコムXやキング牧師についてはそれ以前から知っていたが、ローザ・パークスやマーカス・ガーヴェイや、その他黒人の長い戦いにまつわる様々な名前を彼らの口から初めて聞いた。
ハーレム・ルネッサンスという言葉を知ったのもこの時期で、たまたま入ったバーでデューク・エリントンの音楽がかかっていて、そのとき一緒にいた女性の口から出てきた言葉だったように覚えている。
その言葉を知らなかった僕に、彼女は説明してくれた。ハーレム・ルネッサンスというのは1919年から始まり十数年つづいた、黒人文化が開花した全盛期だ。文学、音楽、絵画などで後に名作と呼ばれるものが次々と誕生して、黒人の意識と環境が激変した時期でもある、と。
デュークもビリーもベッシーも、みんなハーレムの子供たちなのよ。
少しカッコつけて、全黒人を代表するようにその彼女は言った。
理由は今でもわからないが、僕はハーレム・ルネッサンスというその言葉が、とても大きなものにも小さなものにも、泥臭いような汗臭いような、なんとも判別しがたいドロドロしたものを表しているような落ち着かない気分になって、呑みながら長いこと彼女に質問し続けた。
途中で面倒くさくなったようで、じゃあこの本読みなさい、と言いながら彼女は、バーのナプキンにボールペンで「ベスト オブ シンプル ラングストン・ヒューズ」(Best of simple, Langston Hughes)と書いて渡して来た。
(2につづく)
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