ある日のできごと | 日常の中の911同時多発テロ

NY911

2010.9.11

1

最初の異変。

その朝は友人の電話で目が覚めた。

お互い深夜まで仕事をしているので、朝早い電話は珍しい。僕が受話器を取ると彼はすぐに興奮した声で話しはじめた。

「飛行機がビルに突っ込んだらしいよ!」

 

 

 

 




 

 

僕の頭には完全な?マークが点灯し、どういうことかと友人に問いただしても彼もそれ以上のことをまったく知らないらしく、電話は要領を得ないまま切れた。

わけがわからないまま、普段より数時間も早く目を覚まされたのだが、またベッドに入る気にもならない。

軽く朝食を済ませたあと、仕事まで特にやることもない。その日は数日前に撮影した結婚式の写真を暗室で焼く予定だったのだが、午後にならないと暗室が使えないことになっていた。読みかけの本もなかったし、そのときはテレビも接続しないでビデオ専用になっていた。仕方がないので当時日課にしていたプールに向かうことにした。タオルや水着を鞄に詰め、勢い良くアパートのドアを開け、そこで次の異変に気がついた。

目の前が真っ白に煙っていたのだ。もうもうと淀んだ白い砂埃の中、僕の頭には今日二つ目の?マークが点灯したのだが、それをさっきの友人の電話と結びつけるような機転はなかった。

今から思い返すとあまりにものんきなので不思議だが、近所で解体作業でもやってるんだろうか、なんて思いつつそのままバス停まで歩いて行った。

バスを待ち、バスが来て、それに乗り込む。バスはその路線、その時間にはありえないぐらい満員の人間を乗せていた。そこで三つ目の?マーク。隣に立っている若い男に、何かあったのか聞いてみる。その男も、よくわからない、ただビルに飛行機がぶつかったらしい、と友人とまったく同じことを言った。

不穏な空気を感じながらもプールの前のバス停で下車し、建物の中へ入って行く。水着に着替え、ゆっくりと泳ぎ始める。泳ぎながら、四つ目の?マーク。僕の他に泳いでいる人間がひとりもいない。周りには監視員が3人いるのだが、水の中に入っているのは僕だけだ。不安に思って監視員のひとりにもう一度、なにかあったのか聞いてみる。彼もやはり、よくわからないがなにか大きな事故が起こったみたいだ、と不安な表情を見せた。

なにが起きているのかまったくわからないのだが、なにかが起きたことは間違いない。

すぐに水から上がり、来た道を戻り始める。ほどなくしてバス停に現れたバスは、またしても隙間なく大勢の人間を乗せていた。誰もが声を発することもなく、車内は重い空気に包まれていた。ドライバーにまた同じ質問をすると、彼は前を向いたままで、ワールドトレードセンターに飛行機がぶつかった、今日は会社も学校も休みだ、と抑揚のない声で言ってから僕の方を一瞬見て、クラッシュ、ともう一度繰り返した。

 

2

森の中に迷い込んだ人間がその森の大きさを知ることができないように、この街の人間が、事件の全貌を完全に理解したのは、世界中のどこよりもずっと遅かったのではないだろうか。

学校や会社が突然の休業になったにも関わらず、笑顔を見せる人はバスの中にはひとりもいなかった。

起こったことの様相を知ることは出来ないが、確かに重大なことが起こったのだということは誰もが感じていた。

家に戻り、テレビをつけようと思ったがアンテナに接続していないことを思い出し、近所のメキシコ人が営んでいる食堂へ行った。午前中にも関わらず、食堂のテレビの前ではいろいろな人種の男達が十人ほど集まっていた。みな完全な無表情で、ひと言も発することなく画面を食い入るように見つめている。

コーヒーを頼み、テレビの前に座る。テレビは一機目の飛行機が見慣れたビルに衝突する瞬間を繰り返し流していた。

その映像は言葉を一切拒否するような威圧感で、周囲の男達が沈黙する理由を僕も理解した。黙って画面を見つめていると数分後にカメラはひとりの男を映し出した。

史上最も暗愚な大統領、と後に揶揄されることになるその男は、目にうっすらと涙を溜めこの国に語りかけていた。

悲劇、大惨事、テロリズムと、大統領が発する言葉はやはりどれも大きな異変を告げるものばかりだったが、起きてしまった事実の大きさの前で、その声はあまりにもか細く無力に感じられた。

画面が再び切り替わり、二機目が衝突する瞬間を写し出した。そしてその後に続く110階のビルが崩壊に至るまでの映像は(その中には逃げ場を失った人々が高層ビルの窓から飛び降りる瞬間のものも数多くあった)、完全に理解の範疇を越えていて素直に受け入れられるものではなかった。

もし起こったことを言葉で伝えられたら受け止め方はまた違うものになっていただろう。簡単に受け止められない事実を前にしても、その残酷な映像は問答無用でそのことが「実際にあった」ことを証明し、待ったなしでこちらの心を潰しにかかってくる。本当なのか?という疑問はあらかじめ拒否されているのだ。

それでもその映像がなにかしらSF映画のような胡散臭さを放っていたことにほんのわずかな望みを抱いて、今すぐ自分の目であのビルを見に行こう、と決めた。

5分ほど歩けば川岸に出る。ふだんなら対岸に二棟の高層ビルが一望できる場所だ。

 

3

川岸に着くとそこにはすでに3、4人ほどの人間がいて、やはり誰もが完全に沈黙したまま対岸を見つめていた。

二棟のビルがあるはずの場所にはただ白い砂埃が舞い上がっていて、それを見た瞬間は積乱雲のように厚くて濃い砂埃が、高層ビルがぐにゃりと形を変えたもののような錯覚を覚えた。しかししばらく見つめていると風に流された白い柱がゆっくりとこちらに向かって動いているのがわかって、たちまち錯覚は現実に置き換えられた。

頭ではわかっていたのだが、実際に確かめてしまうと、得体の知れない黒くて重いものを心の上にどさりと載せられたような感覚になった。誰もがひと言も口をきかず、打ちのめされたようにその場を離れはじめた。僕もその場に留まって見つめ続けることができずに、足を引きずるようにして家に戻った。

頭の中はただ「なぜ?」というひと言に占められていた。なぜこんなことが起こったのか?なぜあんなにも大勢の人間が死ななければならなかったのか?考えていてもまったく答えは出てこないのは自分でもわかっていた。

家に着き、さきほどの友人に電話をかけた。僕の知らない情報がないか聞いてみたのだが、彼もテレビで言っている以上のことはまったくわからないという。ただ地下鉄が完全に麻痺して、その状態は数日続くようなので、仕事はしばらくできないだろう、と彼が付け足した。明日も確実に地下鉄は動かないだろうが、おそらく家でじっとテレビを見ているのはとてつもない苦痛に思えたので、自転車で行けるところまで行ってみようと思う、と話した。彼も同じように感じていたようで、一緒に行ってみよう、と話して電話を切った。

今日は暗室で写真を焼く予定だった。思い出して、念のため暗室に電話をかけてみる。呼び出し音が続くばかりで誰も出ない。ハウストンストリート以南は立ち入り禁止になっているとテレビで言っていたのを思い出した。暗室は立ち入り禁止域内にあったので、しばらくは営業できないのかもしれない。

どうしてこんなことが起こったのかさっぱりわからないまま、頭の中は様々な思いでぐちゃぐちゃになっていた。混乱したまま、とにかくできるだけ自分の目で見て確かめてやろう、と思いつつ明日を待った。

 

4

翌日は朝早くから自転車に乗って街の中心部へ向かった。

家を出てすぐ、見慣れた街の空気が変わってしまっていることに気づいた。道を行き来する人々は一様に不安と悲しみを顔に張り付け、それが街全体を覆う重い空気を形作っていた。

僕は当時ブルックリンに住んでいたのだが、ブルックリン・ブリッジは通行止めになっていて、仕方なくもっと北のマンハッタン・ブリッジを渡った。友人と合流して、南へ向かう。重い空気の中、街がざわめいているのを感じた。

報道の通りに、ハウストン・ストリートにはテープが貼られ、ここより南には立ち入れないようになっていた。

テープの前には大勢の人間が集まり、南にあったはずの高層ビルを見つめていた。数百人の人間がそこにいたと思うのだが、みながみな極端に口数が少ないので、気味が悪いほど静かな群衆だった。

ただ商魂逞しい人間はいるもので、畳一畳ほどもある大きな星条旗を車に山ほど積み込み、一枚30ドルだかで売りさばいている男もいた。なんだって商売にしてしまうその図太さに感心と少しの苛立ちを覚えたのと同時に、もしかしたらこの街の人間ではないのかもしれない、と理由もなく思った。

群衆の中を歩いていると、そこにブラジル人の友人の顔を見つけた。彼も同時に僕に気づき、お互い歩み寄って無事を確かめあった。ふだんはいつもヘラヘラして、ふざけたことしか言わないこの男が、両目にうっすらと涙を浮かべながら握手した手を痛いほど握りしめて来たのを今でもはっきりと覚えている。

できるだけ迂回して街を見ながら、ゆっくりと家に戻るといくつかメールが届いていた。ひとつひとつ開いてみると、その中に関西に住む友人からのものがあった。

メールの中で友人は、人を捜してほしい、と書いていた。私の友達の婚約者がちょうどそちらに出張中で、事件があってから連絡が一切途絶えている。彼女は倒れるほど心配しているが現地に頼める人もいないので、できるだけ捜してもらいたい。婚約者は日本の銀行員で、その銀行はあのビルに入っていた、といった内容のメールだった。

できるだけのことはする、と友人に返信して、明日、行方不明者捜索センターへ行こう、と決めた。

 911

5

次の日、相変わらず地下鉄は動いていないので自転車でマンハッタンへ向かう。

連日、テレビや新聞には様々な情報が氾濫していた。イスラム系の狂信者が聖戦という名の下、周到な準備の末に実行された犯行ということもわかってきた。

イスラム系移民に対するリンチまがいの暴行が、特に地方で頻発しているというニュースは、事件そのものと同じ大きさの衝撃で僕の気持ちを暗くしていた。事件直後の悲しみや不安の高まりが、ヒステリーに近いそういった形で表に現れたということが、アメリカの自由の国という顔の裏に普段は隠された、いわゆる「アメリカ社会」の生々しい本質をかいま見てしまったようで、まるで冷たい水を背中にかけられたような居心地の悪い感覚があった。

街には高校や中学校の体育館を使って即席の捜索センターがいくつもできていた。ミッドタウンにある中学校に近付くと、壁を多くの張り紙が埋め尽くしているのが目に入った。すぐにそれが行方不明者を捜す家族や友人が貼ったものだとわかり、その数の多さにまた心が潰されそうになるのを感じた。張り紙は体育館の中までびっしりと続いていて、どれもが「MISSING」と大きく書かれていたが、それぞれ違う人間の顔写真を示していた。

体育館はたくさんの人間で混み合っていた。犠牲者を悼むシンボルカラーが黄色といつしか決められていたので、そこで働くボランティアの人々はみな黄色の衣服を着ていた。しばらく待っているとテーブルの一つが空き、係の女性にこちらへ、と促された。
隣のテーブルでは二人の幼い子供を連れた若い女性が目の前の紙になにかを懸命に書き込んでいた。小さいほうの男の子がぐずって泣き続けていた。
担当の女性は僕が席に着くとすぐに一枚の紙を置き、捜している人のことを少しでも詳しく書きなさい、とペンを差し出した。背の高さ、髪の色、目の色、ひとつひとつ友人から聞いた婚約者の特徴を書き終えるまで、彼女が僕をじっと見つめているのを感じた。
それは事務的な対応の中でも、なにかしらこの困難を少しでも分かち合おうという精神の現われのような、確かに暖かい気持ちを感じさせる視線であって、ここに来る前に背中に感じた冷水のような感覚が多少和らいだように思えた。

僕が体育館の出口に向かったときも隣の男の子は泣き続けていた。

僕は自分がひどく疲れていることに気がついた。日常に戻らなければ、と思った。

 

6

生きている人間には戻るべき日常がある。

事件が起きて数日は言葉を失ったようになっていたが、ダムが決壊するように言葉が溢れ出していた。出会う人がみな無事を確かめ合い、一体あの事件はどういうことなのかと話し始めていた。街全体が重い空気に覆われていたのは変わりなかったが、初対面のような人たちでも情報や意見を交換したがっていた。喫茶店でたまたま近くに座った人と話し始め、気づけば7、8人が集まって話し込んでいたこともあった。誰もが不安で、答えを必要としていたのだと思う。

街は混乱を引きずっていたものの徐々に日常生活が戻り始めたが、そうした「喋る時間」は一週間ほど続いた。メディアに出てくる新しい情報について話し、好戦的な大統領の対応に危機感を募らせた。誰もが話さなければいけない何かを持っているようだった。

しかし一週間が過ぎると、波が引くように誰も事件のことを話さなくなった。延々と答えの出ない作業に疲れてしまったこともあるし、日常生活に戻って前を見なければいけないと気づいたこともあるだろう。国際情勢の大きなうねりを一個人の小さな肩では受け止め切れないと感じたのも大きな理由だと思う。もちろん事態が動くたびに人の口から事件の話は出て来たが、以前のように何らかの答えを渇望して話し続けるということはなくなったようだった。

僕も日常の中に戻っていた。事件の影響で遅れていた仕事をひとつひとつ仕上げていった。

あの事件の当日に焼くはずだった結婚式の写真を、一週間遅れで届けに行った。結婚したのはフランス人の夫婦で、型通りでない結婚式の写真を撮ってほしい、と言って専門ではない僕に依頼があったのだ。暗室が再開してから大急ぎで写真を焼き、新婦のミシェルとダウンタウンの喫茶店で待ち合わせた。

ミシェルと出会うとお互い無事を確認して、大変だったね、と言葉を交わしたが事件のことはそれ以上口にしなかった。「喋る時間」は僕にも彼女にも過ぎ去っていたのだろう。

僕が手渡した写真を彼女が一枚一枚味わうようにゆっくりと見ていく。最後の一枚を見終わったとき、ミシェルが俯いて小さな声で絞り出すように「ジャッキー」と呟いた。

 

7

ジャッキー・デュガン。彼女のことは僕も知っていた。

ジャッキーはウィンドウズ・オブ・ザ・ワールドという大きなレストラン兼結婚式場で、パーティーや結婚式をコーディネートする仕事に就いていた。ミシェルの結婚式の担当が彼女だったので、打ち合せも含め三回彼女と会って話し合いをしていた。彼女はいつでもてきぱきと仕事をする人で、かといって尖ったところはなく、その仕事をすることに大きな喜びを感じているような印象が強かった。打ち合せの最中、楽しそうですね、と声をかけると「プライベートでもパーティーは私が仕切るから、これは天職よ」と言って笑っていた。

 

 

2001年9月8日に行われたミシェルの結婚式は、ウィンドウズ・オブ・ザ・ワールドで開かれ、ウィンドウズ・オブ・ザ・ワールドはワールドトレードセンターの107階にあった。

事件が起きてから、ジャッキーのことは僕も常に気になっていて、無事でいてほしいと願っていた。それまで確かめる術がなかったし、最悪の結果を聞くのが嫌でミシェルにも簡単に訊ねることが出来なかった。ミシェルは下を向いたまま、「昨日出た犠牲者のリストに、彼女の名前を見つけた」と言った。声が震えていて、涙を堪えているようだった。僕にはかける言葉が見つからず、しばらく二人とも黙ったまま俯いていた。

長い沈黙の後、ミシェルが顔を上げた。両目には涙が溢れそうになっていたが、無理に笑顔を作ろうとしているようだった。「写真は素敵よ」とミシェルが言った。
「だけど、私には人生でいちばん幸せで、いちばん悲しい記憶になってしまったわ」
そう言ってから、また無理に笑おうとしていた。

World Trade Center / Ground Zero

 8

あれから9年が経った。その後戦争が始まり、フセインが処刑され、ブッシュはホワイトハウスを去った。あらゆるメディアがあの事件がどのような理由で起こされたのか、あの事件を引き金にして世界がどのような形に変わっていくのか、たくさんの言葉と情報を駆使して解明しようとしていた。そういった膨大な数の言葉のおかげで、なぜ、誰が、どのようにしてあれを起こしたのかという経緯と、歪んだ歴史と感情が長い年月をかけ醸成させた根本的な原因の形は少しずつだが知ることができた。

ただ、ジャッキーやあのビルで死んだ大勢の人間が、なぜあのときあそこで死ななければならなかったのか、そういう疑問に対する答えを含んだ言葉に出会ったことは今までただの一度もない。

おそらく理由などはない。すべては偶然だったのだ。

ジャッキーは偶然あのビルの107階で働いていて、あの日は偶然休みではなかったし遅番でもなかった。
3000人近くの人間が、それぞれの偶然が重なってあの事件に巻き込まれて命を落とした。だとしたら僕があの日あの場所にいなかった理由も偶然であって、ミシェルの結婚式が11日ではなく8日であったこともまた偶然なのだろう。

偶然が人間の死ぬ理由になり得るとしたら、人間が生きている理由にもなり得るのだ。あのときあそこにたまたまいなかった僕が今こうして生きているということも、僥倖に近い偶然というようなものなのかもしれない。

死者には手を合わせ、忘れない、と言うことぐらいしか僕にはできることがない。このわずかなことでさえ、死者のためというよりは生き残った人間の気持ちのためにやっている気もする。
それでも一年が過ぎてこの日がまた来ると、静かに目を閉じて手を合わせる。

僕はジャッキーの歳を追い越してしまった。

 

 

(おわり)

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