8月
25

夢の転生者 次期ダライ・ラマに選ばれた

posted on 8月 25th 2010 in 毒にも薬にもならない with 0 Comments

じっとりと寝苦しい一夜に、夢を見た。

 

目の前にはチベットから来た男達がたくさんいる。

みな一様に正装しているところを見ると、なにかしら公式な使節団なのだろう。

その中の頭領と思われる男がひとり前に進み、重々しく僕に向かってこう言った。

「あなたが次期ダライ・ラマに選ばれました。これからチベットに来て準備して下さい。」

 

夢なので、どんなぶっとんだ状況もありなのだ。

ただ夢の中の僕はなぜだか、とうとう来るものが来たかというような重い気分でいた。

悩んでいるのだ。

 

自分がダライ・ラマの生まれ変わりになってしまったことはしかたがない。

ただ最近は中国に操られたチベット僧侶も多いと聞く。

もし一大決心をしてダライになったとしても、それが中国政府の傀儡として選ばれたのであれば浮かばれない。

以前訪れたチベットで出会った人たちは、笑顔が溢れる素朴な人々だった。

そんな人々を痛めつけるような存在には絶対になりたくない。

 

おかしな話だが真剣に考え込んでいた。苦悩は続く。

 

ダライ・ラマになってしまったら写真を続けられなくならないか。

ダライをしながら写真も許されるのか。そんな時間あるのか。

でも、ダライ・ラマが撮る写真って誰にも真似できない面白さなんじゃないか。

 

ぐずぐず考え込んでいる僕にしびれを切らして、使節団が僕を取り囲み無理矢理連れて行こうとする。

いやいやいや、ちょっとちょっとちょっと。

意味をなさない抵抗をした僕の目に、使節団の中に明らかに中国の軍人が混ざっているのが見える。

 

ああ、やっぱりか。操り人形か。

 

怒りと落胆が入り交じった気分になって目が覚めた。じっとりと汗をかいていた。

 

そもそもダライ・ラマ14世が存命中なのだから生まれ変わりが世に出ることはない。

 

夢とはいえその大前提に気づかずぐずぐず悩んでいた自分が阿呆らしい。

 

時刻は昼前になっていた。

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8月
22

8mmカメラがもたらす破壊と創造

posted on 8月 22nd 2010 in 毒にも薬にもならない with 0 Comments

8mmカメラにハマっている。

 

40年ほど前に作られたカメラを手に入れて、初めてフィルムを回したときは、こちらの思いのままにならない、そのわがままさ加減に驚いた。

なにせ古いものなので、フィルムを数本分撮ってみるまではどんな絵になるのかイメージできない。

まずホントに絵が撮れるのか、というところから始まって、露出の正確さや、逆光に弱いとか、暗部に弱いとか、いろいろな状況で撮ってみて、ちょっとずつ感覚として把握していく。

これはきっと写真のカメラでも同じことだろうが、8mmカメラの場合は、その把握していく過程で壊れてしまうのだ。

エルモというカメラをインドに持って行ったときも、3分ばかりのフィルム一本撮ったところで、ふてくされて動かなくなってしまった。

暑い車内にしばらく放っておいたから怒ってしまったのか、いくら話しかけてもうんともすんとも言ってくれない。

写真のカメラ、たとえばライカやコンタックスは同じ状況でも機嫌を損ねないので、エルモが気難しい、繊細なカメラだったのだろう。

* * *

基本的に8mmカメラは修理できない。

もう作っている会社が存在しない場合が多いし、がんばって治そうとするとものすごい金額になったりする。

なので、また中古の安いものを手に入れるわけだが、これで再び何本か撮影してカメラの性格を把握し直さないとならない。

そしてその把握する過程でまた動かなくなる。

そういう不毛な繰り返しをすでに三度繰り返している。

 

なんでこんな面倒くさいものに手を出したのかと自分でも不思議だが、思いのままにならないというのがちょっと面白かったりする。

こんな感じで撮れてると思うんだけど、というイメージをガタのきた8mmカメラは見事に裏切ってくれる。

こんなはずじゃなかったのに、というマイナスの場合も多々あるのだが、たまにこちらのちっぽけな意図を圧倒するような、気持ちのよい裏切りを披露してくれることもあって、そのときの感覚は撮ってすぐ確認できるデジタルではなかなか味わえないものだ。

昔は写真のカメラも壊れやすくて、フィルムも品質が安定していない時代があったらしい。

そんな時代にスペインの闘牛を撮り続けていたある写真家の話を聞いたことがある。

その男は10数年熱心に写真を撮り続けた後、ある日いきなり写真そのものを辞めてしまったのだが、なぜ辞めたのかと理由を訊ねた知人に対してこう言ったという。

「カメラもフィルムも進歩して、シャッターを押せば写真が撮れる時代になったから」

 

自分の意図通りに撮れるかどうかといった話以前の、フィルムの質が安定しないので画が撮れてるかどうかすら心許ない。写真がそんなメディアだったからこそ、その男は写真を撮り続けていたのだという。

 

8mmを触りだしてから、この男の話をやたらと思い出す。

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8月
10

この暗い部屋

posted on 8月 10th 2010 in 毒にも薬にもならない with 0 Comments

よく驚かれるのだが、今年の夏までずっと我が家にはクーラーがなかった。

一軒家なのでなんとなく涼しい気がする、と自分をごまかして乗り切っていたのだが、今夏の猛烈な暑さはさすがにごまかしようがなく、四部屋のうちのひとつにクーラーを入れた。

めでたくエア・コンディション状態になったのは、居間でも台所でも寝室でもなく、二階にある六畳の暗室だ。

暗室は光を遮断するために、窓も雨戸も閉め切ったうえに、分厚くて真っ黒な暗幕をかけてある。ほんの少しのそよ風も流れない室内は、写真を焼くための諸々の機械が発する熱のせいで、またたくまに熱帯雨林か灼熱砂漠のような気温まで上昇する。

これまでの夏では、覚悟を決めて気合いで乗り切っていた。息を止めて、せーので暗室の作業、一枚焼いたら急いで室外に出て汗を拭う、という繰り返し。仕上がる頃には汗も出尽くしてヘトヘトになっていた。

それが今年のこの暑さがきっかけで、これは落ち着いて写真を焼けない、それどころか命が危うい、と考えさせられた。妙な意地を張って死んでしまうのを良しとするほど、暗室作業は命がけのものではない。

おかげで今では我が家のなかで一番涼しい場所が暗室になっている。こうなると仕事がどんどんはかどるのは良いことだが、知らず知らずのうちに暗室で過ごす時間が長くなり、モノが暗室に移動し始めた。

まずノートパソコンが隣の部屋から移住して、イス、灰皿、コップその他こまごましたものが民族移動した。短期でまた元の場所に帰って行くモノもいるし、ほぼ永住のように居座っているモノもいる。最たるものが僕自身で、家にいる時間の八割か九割はこの部屋にいるような気がする。暗室が生活の拠点になって来ているのだ。

常に現像液の香りがただよう部屋で生活していると、なんだか自分自身もいつかは現像されてしまうような妙な気分がするのだが、ここが最も快適なんだからしかたない。

秋が訪れるまでのあと数週間、体の芯まで現像液がしみ込まないように祈りつつ、これも暗室で書いている。

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7月
29

トーキョーヨヨギで返済を 2

posted on 7月 29th 2010 in 1995 with 0 Comments

トーキョーヨヨギで返済を つづき)

その雑誌は第一勧銀の社内報で、発行は1997年となっていた。

表紙を開くと謝さんの名前とともに、「ほろ苦い絵ハガキ」というタイトルがある。すぐにあのときの僕との出会いを書いたものだと知り、その場で読ませてもらう。

「ほろ苦い絵ハガキ」 謝孝浩

「石川ですけど。覚えていますか」

深夜、突然電話が鳴った。イシカワ?思いあたる顔が浮かばなかった。

「エリトリアでお金を借りた石川です」

ああ、っと声をだして、長髪のひょろっとした青年の姿が頭をよぎった。一年半も前の事だ。エチオピアから分離独立したエリトリアという国に仕事で行った時だった。

「日本の方ですか?」

振り向くと、よれよれのシャツにGパン、長髪に無精髭の二十五歳くらいの青年がいた。その風体に何となく懐かしさを感じた。

私が頷くと、彼は少し黙っていたが、思い切ったように声をだした。

「ぶしつけで申し訳ないのですが、お金を貸していただけないでしょうか」

彼の話によると、八ヶ月ほど前に日本を出発し、東南アジア、インド、中近東を経て、一度ヨーロッパに入り、そこからアフリカに渡ったという。ヨーロッパ滞在中にスイスの銀行に口座を作って預金しておいたのだが、エチオピアでは引き出せなかった。あわてて有り金をはたいてエリトリアまできたものの、ここでもダメだった。エリトリアの港からエジプトに船が出ているらしく、エジプトならその金が引き出せるだろうから、それまで必要なお金を貸してもらえないかというのだ。

「いくらぐらい必要なのですか?」

「アメリカドルで二〇ドルあれば、、、。あと三ヶ月ほどしたら帰国しますので、その時必ず返します。僕の運転免許証をかわりに持って行って下さい」

せっぱつまった思いと誠実さが感じとれるような気がした。それ以上に愕然としたのは、彼が貸して欲しいという金額だった。たったの二〇ドル。一ドルというものを、本当に大切に使って旅をしているのだ。

十年ほど前、彼と同じくらいの歳の時、私はヒマラヤを六ヶ月近くあてもなく旅をした。お金がないなりに、その土地の風景や人びとの中に溶け込もうとしていた。現実逃避だと思いながらも、自分というものの存在を問い直していた旅。いや、それさえもあやふやで、ただただ浮遊していた自分。あの頃の、ほろ苦い感触を思い出していた。

私は、エジプトでも引き出せないことを考えて一〇〇ドル貸すことにした。

「免許証も利子もいらないから、思い出したら旅先からハガキをくれよ」 そう言って別れたのを覚えている。

私が帰国してから三ヶ月ほど経って、もう少し旅を続けるというような文面の絵ハガキをモロッコからもらった。

「帰って来たのかい?」

「いえ、まだニューヨークなんです。それでまだあと一年か二年は帰れそうにないんで、借りたお金を送金しようかと思って」

「国際電話!?お金は帰国した時でいいから、電話代もったいないから早く切りなさい」

ブーという音を聞きながら、なんだか、おかしくなってきた。この一年半、彼はどんなルートを通ってニューヨークへ辿りついたのだろう。そして、さらに一年も二年もどこに行くのだろうか。聞きたいことは山ほどあったのに、まあ、いいか。そのうち、どこかの匂いがしみついた絵ハガキが着くだろうから。

そこにはあのときの謝さんの目から見た僕がいて、思わずなんだかエリトリアのホテルのロビーに舞い戻ったような気分になってしまう。お互い記憶が少し違う部分もあるが、なにしろ何年も前の、ほんの数十分の邂逅だったのだ。

僕はあのとき必死になっていて、自分の長髪も無精髭も覚えてなかったし、モロッコから絵ハガキを送ったこともこれを読んで、ああ、言われてみればそうだった、と思い出すぐらいだった。ただひとつ、あのとき謝さんが僕に言った言葉は間違いなくはっきりと覚えていた。あのとき謝さんは、今後君が困っている人に出会ったら次は助けてあげなさい、と言ってお金を渡してくれたのだ。

その後8年、謝さんが僕にしたように、僕は誰かに手を差し伸べることができただろうか。自分勝手に困ってばかりで、困った人を助けたという自信はまったくない。いつか、そのときが来たら、と思っているばかりだ。

あのとき言われたこと、たぶんまだぜんぜん出来てないです、と謝さんと笑い、冷えたビールで乾杯する。今度ははっきりと口に出して言う。

エリトリアに。

(ほんとにおわり)

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7月
25

トーキョーヨヨギで返済を

posted on 7月 25th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 14 つづき)

東京。2003年。

僕は28才になっていた。イスラエルにやっとの思いでたどりついた旅はその後もつづき、ヨーロッパに入ったのち、今度は西アフリカに行き、またヨーロッパに戻って来るという思いつきと行き当たりばったりのルートで、無計画さは最後まで変わらなかった。お金が尽きてイギリスで半年ほどバイトをして、そこで稼いだお金で東ヨーロッパを旅したあと、そうだ、ニューヨークに住もう、とそのままアメリカに7年ほど住み着いてしまっていた。

その間も頭の隅っこでは、あのときエリトリアで握りしめた200ドルのことは消えることはなかった。必ず返しに行きます、そう言って僕はお金を借りたのだ。

ニューヨークに着いて、アパートを見つけ落ち着いたころ、いちど日本のあの人に電話をしたことがある。あのときは半年ぐらいで日本に帰るつもりだったんですが、のびのびになるどころか、これからニューヨークに住もうと思うんです。あのときのお金をこっちから送金しますから。

あの人はちょっと笑って、帰って来たときでいいから、それより電話代もったいないから、と言って電話を切った。それから7年ー。

ニューヨークのアパートを引き払い、日本に戻った僕はあのときもらった名刺を数年ぶりに見直した。○○旅行社の謝孝浩さん。そこに記載されている会社の番号に電話をかける。

電話に出た女性は、謝はもう会社を辞めました、と言った。理由を話して、自宅の電話番号を教えてもらう。その番号にかけてみると、何回かのコールのあと、はい謝です、と声がした。

あの、石川です。8年前にエリトリアでお金を借りた者です。そういうと謝さんは少し考えたあと、ああ、あのときの、と思い出してくれた。改めてお礼を言い、あのときのお金をお返しに行きたいのですが、と伝える。

謝さんはアスマラで僕を見送ってくれたときと同じような気軽さで、じゃあご飯でも食べに行きますか?と誘ってくれた。

代々木の駅前で、8年ぶりに謝さんと会う。

カンボジア料理の店に入り、あのとき借りたお金を渡す。これは返ってこないものだと思っていたから、今日はこのお金で食べましょう、そう言って謝さんは注文しはじめた。

そういえば、会社は辞められたそうですね。そう聞くと、うん、いまはライターとして文章書いているんです。そう言って謝さんはいくつか雑誌の名前を挙げた。とても近いところでお互い仕事していることに気づき、改めて人の縁というのは不思議なものだ、と感じたのだが、何かを思い出したように、そうそう、こんなものを書いたんだ、と謝さんが一冊の薄い雑誌を取り出した。

につづく)

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7月
20

エリトリアで借金を 14

posted on 7月 20th 2010 in 1995 with 0 Comments

map Massawa to Tel-Aviv

エリトリアで借金を 13 つづき)

サウジはビザに厳しかったが、入国審査もきびしかった。

なぜだか理由はいまだに不明だが、審査の列で僕の前に並んでいたおじさんが、脇に大きなマクラを抱えていた。長い船旅ではマクラは必需品、なのかもしれないが、かわいらしいことこのうえない。イミグレーションの係官はそれに目をつけて、まずは中に何も隠していないか、パンパン叩いていたのだが、あげくの果てにはナイフを持ち出し、真ん中から大きく切り裂いてしまった。羽毛を外に飛び散らかしながら中に手を突っ込み、当たり前だがそこには羽毛しかないことを確認し、はいオッケー、とおじさんに返す。受け取ったおじさんも僕も目が点になっていた。

36時間の期限付きで、ジッダに入る。まずはエジプト行きの船のチケットを買いに行く。船の出発が3日後、なんて言われたらまたビザの問題が出てくるし、200ドル、なんて値段だったらまたしてもお金が足りなくなる。まだまだ気は抜けないのだ。

港の近くの事務所で聞いてみるとスエズまで80ドル、幸いなことに今夜出発するという。チケットを買い、ジッダの街をぶらぶらしたあと港に戻り、船に乗り込む。ここまで来れば焦ってばかりいた僕の心にもだいぶ余裕が生まれて来て、これならカイロによってピラミッドだけでも見て行こうかと、調子の良いことを考え始める。

二泊三日かかってスエズへ到着。やはりどうしても、とカイロに行くことにする。ピラミッドを堪能し、そろそろヤバい、とイスラエルのテルアビブ行きの長距離バスに乗る。バスは夜を徹して走り続け、翌日の昼頃にはテルアビブのターミナルで乗客を降ろした。

初めて触れるイスラエルの空気を吸いながら、財布の中を見る。カイロによっていたせいで、またしても10ドルぐらいになっている。でも、大丈夫。シティ・バンクの人は世界中にATMがありますよ、って言っていたのだし。

そのまま近くにATMを探し、カードを突っ込む。ザッと機械の音がして、初めて目にするシュケルの札が数枚、取出し口から現れる。教えられた安宿に歩いて行き、荷物を下ろし、近くの酒屋にビールを買いにいく。1ケース買って宿に戻り、カウンターにドスンと載せる。一本だけ取出して、あとは勝手に飲んでよ、と受付のおにいさんに渡す。

貧乏旅行者が集まる安宿で、それは珍しい光景だったのだろう。ロビーにいた客たちが、おれもおれもと、またたく間に12本のビールは売り切れた。

受付のおにいさんは自分でも一本開けながら、なんか良いことでもあったのか?とそのわけを知りたがっていた。いや、深い理由はないけれど、と答えたものの、ビールを持った人たちが一斉に、チアーズ!とうれしそうに言ったとき、ひとつだけ心の中でつけ足した。

エリトリアに。

(おわり)

A:Massawa  B:Jiddah  C:Suez  D:Cairo  E:Tel Aviv

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7月
16

エリトリアで借金を 13

posted on 7月 16th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 12 つづき)

見覚えのある道をバスが走る。

朝アスマラを出発した僕は、まだ日があるうちにマサオアに到着した。

1週間ぶりの港を港湾事務所に向かって歩く。事務所の人たちは僕のことを覚えていたらしく、入ったとたんに挨拶ぬきで、ビザもらったか?と聞いて来た。

僕も挨拶ぬきでパスポートを開いてみせ、ほら、とサウジのビザのページを見せると、なぜだかそれをみんなして回し見して、顔をほころばせた。

最後にボスがそれを見て、相変わらず冷静に船のチケットを作り始める。チケットはわら半紙のようなペラペラの一枚の紙だ。僕が代金を手渡すと、ボスはそれに勢い良く最後のスタンプをドン、と押した。

その夜はマサオアの半壊した宿に泊まり、翌朝港に戻る。漁船をちょっと大きくしたような、なんとも心許ない船が一隻停まっていた。 乗り込むとちょうどイスラムのお祈りの時間が始まったようで、狭いデッキに数十人の男たちがそれぞれ小さなカーペットを敷き、メッカに向かって礼拝している。アッラアアー、アクバアール、という祈りの声は船のスピーカーから大音響で流れていて、普通の会話も覚束ない。他に何もすることなく、ぼんやりしながら出発を待つ。

心許ないながらも船が出発し、翡翠色をした波の上を、すべるようにとはいかないが、ノロノロと進む。エリトリアの黄色い陸が少しずつ小さくなり、水平線に消えていく。太陽はこれ以上ないほど強く照りつけて、船上に濃い影を作る。

しばらくして空腹を感じ、船の小さな売店に行ってみて愕然とした。ここでは米ドルはもちろん、エリトリアの通貨であるナクファでさえも使えないというのだ。食べ物欲しかったらサウジのリヤルを持って来な、というのだが、これからサウジに行く僕が、リヤルを持っているわけもない。せっかく苦労してお金を借り、わざわざ船中のためにと少々のナクファに替えておいたのに。ジッダまで二泊三日の船旅で、思わぬ理由で絶食を覚悟した。

腹減ったなあ、とふらふら船内を歩いていた僕に、乗客のひとりが声をかけた。見るとそこには床にカーペットを敷き、ピクニックのように食べ物を広げている一団がいた。サウジの人たちだったように記憶しているのだが、その人たちは僕が空きっ腹なのを見抜いたのだろうか、陽気に、こっちに来て一緒に食べないか、と誘ってくれた。

喜んで、と彼らが持ち込んだ食事を遠慮もなくいただく。うまい。ありがたいことにこれも食え、あれも食えと、もう満腹、というところまで次々とごちそうになる。あとで気がついたのだが、食事時になると乗客たちは船のいたるところでこうしたピクニック状態になっていた。それに気づき味をしめた僕は、時間になると船の上を散歩する。必ず、どこかしらのピクニックから声がかかり、腹一杯の食事にありつける。

一日五回、問答無用の大爆音で流れるコーランの響きには閉口したが、サウジの食事のおいしさと彼らの優しさは僕の粗末な旅を明るく彩ってくれた。

時折イルカに並走されながら、船はジッダの港に入る。

14につづく)

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7月
13

エリトリアで借金を 12

posted on 7月 13th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 11 つづき)

15分も話し続けただろうか。その間、その人は僕の話を静かに聞き続けてくれた。

そして僕がすべてを話し終えたとき、その人は考える素振りも見せず、いいよ、いくら必要なの?と即座に答えてくれた。

あまりにも簡単にそう言ってくれたので、今度は僕のほうが驚いて、えええ?本当にいいんですか?と聞き返してしまった。

その人は静かに頷いてこう言った。僕も若い頃には今の君のように旅をして、年上の人にたくさん世話になった。だから僕は今、君にお金を貸そう。そして君は今後困っている人に出会ったら、このことを思い出して助けてあげなさい。

で、いくら必要なの?ともういちど聞かれた僕はちょっと迷い、100ドルあればイスラエルまで行けると思うんです、とさらに小さくなって言う。たぶん、大丈夫です、と言った僕の自信のなさを感じとったのだろうか、その人は、じゃあ念のため、と言い100ドル札を2枚手渡してくれた。

そのとき僕は二十歳を過ぎたぐらいだったが、後にも先にもこのときほど紙幣を重く感じたことはない。

掌の2枚を握りしめて、その人の名刺を受け取った。名刺には秘境を専門にツアーを組む旅行会社の名前があった。半年ぐらいしたら帰国して必ず返しに行きます、その人に頭を下げた。

いいよいつでも、それより気をつけて行きなさい、とその人は近所を散歩するような気軽な感じで僕を門まで見送ってくれた。心の中でもういちど、必ず返しに行きます、と繰り返し、ホテルを後にした。

クモの糸はちぎれなかった。これでまた前に進める。そのまま宿に戻り、荷物をまとめる。明日の朝、マサオアに行こう。港のボスは明後日には船が出ると言っていた。いまならギリギリ間に合うはずだ。

13につづく)

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7月
05

エリトリアで借金を 11

posted on 7月 5th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 10 つづき)

即座に電話を切り、そのホテルまでの行き方をおじさんに教えてもらう。

おじさんは僕の状況が飲み込めたのか、もうオドオドするのをやめ、むしろ張り切って詳しい地図まで描いてくれた。

地図の通りに40分ほど歩く。教えられた上り坂の向こうに、4階建ての瀟洒な白いホテルが見える。門まで近付いて行ってよくよく見てみると、その2階の窓から、確かに日本人らしき女性が顔を出して外を眺めている。

躊躇なく声をかける。こんにちは、日本の方ですか?ああ、やっぱりそうですか。あの、お金貸してもらえませんか?

またしても狂人扱いされても仕方のない状況だ。気の毒な女性は驚いた顔を見せながらそれでも、ロビーで待っていて下さい、と2階から降りて来てくれた。

一体、どうしたんですか?と聞く女性に、恥ずかしながらもざっと事のあらましを説明した。少し無言で考えたあと、私ではどうにもできないからツアコンのひとを呼んできます、と言い残し、女性は2階へ戻って行った。

それからしばらくロビーには誰も現れない。壁にかけられた時計の音がとても大きく聴こえる。登りかけたクモの糸がちぎれそうになっているのを感じる。この糸がちぎれて落ちる底は、やはりカンダタ同様、地獄なのか。お釈迦様はそれをご覧になられて悲しげな顔をされるのか。

不安ばかりが大きくなる。やはり頭のおかしい人と思われて、完全に引かれてしまったのだろうか。今頃ツアコンの人に、変な日本人にからまれちゃって困ってます、なんて助けを求めに行っているのではないのだろうか。

悶々と苛まれること15分、ロビーで小さくなっていた僕に、どうしたんですか?と日本語の声がした。

顔を上げると、30代前半らしき日本人の男の人が立っている。僕がツアコンの者ですが、そういってその人は目の前のソファにふわりと座った。

僕はここに来るまでの道のりと、自分の置かれた状況をその人に話し始めた。

12につづく)

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6月
28

エリトリアで借金を 10

posted on 6月 28th 2010 in 1995 with 0 Comments

エリトリアで借金を 9 つづき)

翌朝、日の出とともに目が覚める。

この時期のアスマラは毎日雲ひとつない快晴だ。オレンジをひとつだけ食べ、良いアイデアも浮かばないまま街に出る。

こうなったら数打ちゃ当たるかも、とまたしてもヨーロッパからの観光客に手当り次第に声をかけてみる。当然だがけんもほろろ、芳しい答えは得られない。もしかしたら、とエリトリア人にも声をかけてみる。お金貸してくれたら、僕ヨーロッパに一度行って、お金引き出してまた戻ってきますから、と。急ぎ足の旅でエチオピアもエリトリアもろくろく観ていないので、お金持ってまた来るのも良いかな、なんてのんきなことをこのときは本気で考えていた。

何連敗したのだろうか、いつの間にか太陽が西に傾き始めたころ、あるスイス人のカップルに声をかけた。

やはり当然のことながら、僕たちは貸せないな、と断られてしまったのだけれど、去り際に、そういえばさっき日本人らしいツアー客を見かけたよ、と気になるひと言を残して行った。

日本人のツアー客?独立したばかりのこの国で?

半信半疑、もしかしたら韓国の建設会社の人たちのことなのかも、なんて思いながらも、この状況でのそのひと言は僕にとっては天から垂れて来たクモの糸、あたってみるしかない、と大急ぎでツアー客が泊まっていそうな大きめのホテルに飛び込んだ。

ホテルの受付係は優しそうなおじさんだった。ここに日本人のツアー泊まってる?と鼻息荒く飛び込んできた僕の勢いに不穏なものを感じたのか、泊まってません、と妙にオドオドしながらおじさんは答えた。

ここではないのだ。でもアスマラでツアー客が泊まれるような大きなホテルはそれほど多くはないはずだ。

電話帳貸して下さい、そうお願いした僕に、おじさんは変わらずオドオドしながらも即座に分厚い電話帳を持って来てくれた。ホテルの欄を開き、おじさんに、大きなホテルはどれですか、と訊ねる。

おじさんが指した電話番号を、片っ端からかけてみる。電話一回の料金がそのままオレンジ4個分だ。縮まるタイムリミットを頭の隅で気にしながらも、一軒目、二軒目、三軒目とかけ続ける。どこも、ここにはいないよ、という返事だった。財布が空になるまで電話してやれ、と人ごとのような、やけっぱちのような気持ちで回転式のダイアルを回す。

七軒目にかけたとき、受話器の向こうの人がちょっと陽気な感じで、ああ、うちに泊まっているよ、と言った。

(つづく)

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