5月
17

エリトリアで借金を

posted on 5月 17th 2010 in 1995 with 0 Comments

少し前の話になるが。

愛宕神社のすぐそばに、NHKの放送博物館という建物がたっている。あるとき偶然まえを通りかかり、余った時間をつぶしたくもあり、ものは試しと入ってみた。

ここは昔のNHKの番組が無料で観れる図書館のような施設であって、NHKスペシャルを一本観れば、次の用亊までちょうど良い具合かな、と番組表を物色する。

ほとんど観た事のない古い名作集のなかで、ひとつのタイトルに目が止まった。

希望のSL鉄道 〜若きエリトリアの国づくり〜 (放送:1998年)

アフリカの右肩に位置するエリトリアという国が、エチオピアとの戦争のすえ独立し、荒廃した国を復興して行く様を丁寧に追ったドキュメンタリーだ。戦争の間、20年以上もほったらかしにされ機能を停止していた、国を横断する鉄道が、国民の熱意によって復活を遂げるまで、を象徴的に捉えていた。

僕は鉄道に強い思い入れがあるわけではない。目が止まったのはエリトリアという国名だ。この名は僕にはとても懐かしく、ある種特別な響きがある。もう15年ほども前になるが、僕はその名の国にいた。懐かしいのはそれからの15年、ほとんどその名を聞く事がなかったからで、特別な響きを持っているのは、そのとき僕がとても困っていたからだ。

番組の中で、首都であるアスマラから紅海沿岸のマサオアという港町まで続く線路を、エリトリアの人々はほとんど手作業に近いような装備で作って行く。外国からの借金は増やしたくないという思いから、外資の提案を断って自分たちの資本で線路を敷き直し、1930年製という年代物のSLを、自国の技術者の手で修理して、磨き上げ、沿道に住む人々が見守る中、乾いた地面しかないような国土を試運転していく様子を映していた。

この鉄道が走るルート、アスマラからマサオアという道を、かつて僕もバスに乗って旅をした。僕がいたのが95年だから鉄道はまだ復活していなくて、他に選択肢はなかった。自ら戦って勝ち取ったからだろう、独立したばかりの国に人々は強い誇りを持っていた。バスに乗り合わせた人たちは皆一様に瞳を輝かせて、唯一の外国人である僕にエリトリアという国の全てを披露してくれようとした。ここら辺りはこういうところで、という説明から始まって、食事のために休憩すれば誰がこの外国人にご馳走するかで、おれがおれが、と揉めていた。僕はそんな彼らに尊敬と羨望の念を抱きつつ楽しみながらも、それ以上に大きな不安を抱え、押しつぶされそうになっていた。

話はそれから1ヶ月ほど前にさかのぼる。上海から長い旅をスタートした僕は、様々なトラブルに見舞われながらもチベットを越えネパールを過ぎ、インドから飛行機に乗りケニアにたどり着いた。強烈なインド社会に少し疲労していたせいもあったのだろう、ケニアでは貧乏旅行に似合わないほど毎日財布を開いて遊びまわった。懐具合を顧みる事なく遊ぶこと数週間、ふと手持ちのトラベラーズ・チェックが少なくなっていることに気がついた。

でも、大丈夫。TCは残り少なくなっていても、僕が旅のために貯めたお金の半分はシティ・バンクの口座に入れてある。シティの人は世界中にATMがありますよ、と言っていたのだし。

その夜中、安宿の小さな部屋でビールを片手に、シティ・バンクからもらってきた小冊子で、どこでお金を引き出せるか調べてみる。どうもケニアにはないらしい。僕は陸路を北上してヨーロッパに入るつもりだったので、そのルートのどこにATMがあるのか辿ってみる。エチオピア、ない。スーダン、またはエリトリア、ない。エジプトもなくって、やっと見つけたのがイスラエルだった。

頭を整理して考えてみると、どうやらイスラエルまでは手持ちのお金でたどり着かなければならないらしい。財布の中身をチェックする。全財産、米ドルで200と少々。その金額で、現在地のナイロビからイスラエルまで。もしたどり着けないと、どういうことになる?

その翌朝8時、僕は北に向かうバスに飛び乗った。

につづく)

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石川拓也 写真家 2016年8月より高知県土佐町に在住。土佐町のウェブサイト「とさちょうものがたり」編集長。https://tosacho.com/

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