エリトリアで借金を 2
(「エリトリアで借金を」 つづき)
バスに飛び乗った、までは良かったが、急いている気持ちに反比例してバスは動く気配がない。
まだ出ない?と誰に訊ねても、ケニアの言葉でポレポレ、ゆっくりゆっくり、という返事しか返って来ない。昨晩の酒も残っているし、焦っていたから朝食も食べていないしで、もうこうなったらとことんポレポレ、とぐったり座席に沈み込む。結局バスが走り出したのは4時間遅れの昼頃だった。
懐具合を考慮に入れれば、もう途中下車の旅なんて余裕はかましていられない。とにかくこのバスが行き着くところまで。そうは思っているのだが、きちんと人の話を聞いてみると、このバスはどうやらイシオロという村が終点だという。そこで乗り換え?なんて思っていたのは大甘で、そこからさきはバスもなにもなくなってしまうので、勝手にヒッチハイクでもして行くしかないらしい。その途端、果てしなく遠く感じるイスラエル。いや、実際に遠いのだが。
薄暮の夕方6時頃、終着駅であるイシオロに到着した。ここで一泊して翌朝トラックでも探しなさい、と言われ、気づくと4、5人は北上組がいるようだ。この人たちにくっついていけば、エチオピアとの国境ぐらいは行けるんじゃないか、と少し安堵して宿を取る。
翌朝4時に眼を覚まし、まだ暗い中広場に出てみると、4トンぐらいのトラックが一台停まっている。あれに乗っけてもらえれば、と近づいて行って驚いた。薄明かりの下、荷台にはたくさんの人間がぎっしりとうずくまっていた。エチオピアから作物かなんかを運んできたトラックは、復路には人間を載せて走るのだ。ヒッチハイクといえども運転手にそれなりの代金を払って、荷台に一人分のスペースを確保してうずくまる。みんな頭からすっぽりかぶれる布を持参していて、準備不足、リサーチ不足の自分が恨めしい。
それでもどうにか乗り込んだトラックは出発し、ひたすらサバンナの道なき道を行く。
正直言うと、そこから数日の記憶はあまりない。憶えていることは、ガゼルかなんかの群れをちょくちょく見たことと、荷台とはいえ隙間なく人間が詰まっているので思ったよりも不安定ではなかったこと、それでもトラックが窪みで跳ねたとき、最後尾の人間も跳ねて地面に転げ落ちたこと、ぐらいだろうか。もちろん落ちた人は直ちに回収されていた。
夜になると宿場のような場所でそれぞれ宿を取り、朝になると集合して北へ向かう。一日走り終わったあとにやっと体を伸ばしてみると、頭も服も砂埃で真っ白になっていた。旅慣れた現地の人たちは、かぶっていた布をパンパンとはたいてそれで終了。僕は耳の中まで砂だらけだったが、シャワーに入れた記憶はない。何を食べていたのかも記憶はおぼろげで、バスとは違って同乗者たちとの会話もほとんどないまま、三日間の荷台の旅は、エチオピア南部のシャシャマネという町で突然終わる。
荷台を降ろされたのは、ここからはまた北へ向かうバスがあるからだ。
会話はなかったもののつらい旅をしたもの同士、なんとなくの一体感は感じるもので、荷台のなかの何人かが、アジスアベバ?と話しかけて来てくれた。そう、アジスアベバに行きたいんだ。そう言うと、いっしょに行こう、と誘ってくれる。こういうことが、こういう場所ではとても心強い。
余談になるが、エチオピアにいるときは、どこにいても聴こえてくる曲があった。僕は勝手に「エチオピア音頭」と名付けているのだが、とにかくエチオピアの地名の連呼、アジスアベバ〜、アジスアベバ〜、シャシャマネ、シャシャマネ、他の地名は憶えていないが、かならず二回ずつ繰り返し、最後にエ〜チオピア〜ア〜ア〜、ン〜ダリマサア〜、と締める。ン〜ダリマサア〜はうる覚えだし、なんのことやらわからないが、とにかくどこでも聴こえてくるので15年経った今でも耳に残って離れない。この時点ではもう財布の中身はこれ以上ないほど心細くなっていたので、この曲のテープをどうしても買えなかったのが今思い返してみても悔しい気がする。
シャシャマネに着いたその日は宿を取り、翌朝、アジスアベバ行きのバスに乗る。荷台の旅を終えた後ではおんぼろバスでも快適だ。このとき、残金約150ドル。
(3につづく)
A:Nairobi B:Isiolo C:Shashamane