イビサのカミナリとインドのカミナリはなにが違うのか
イビサの夏は雨がほとんど降らない。
空気はカラッカラに乾いて、ダートの道を車が走ると白い砂埃が高く舞う。
本来イビサの森はとても豊かな濃いグリーンのはずだが、あまりにも日照りが続くので白い砂を一面にかぶっている。少し遠くから眺めると白い森に見える。
日本に住んでいるとあまり意識することのない事柄だが、「乾期」という季節を持っている地域は、世界的に見ればとても多いように思う。
正確な統計をとったわけではなく、あくまでも僕が訪れた場所においての肌感でしかないのだが。
インドなんかも乾期はもちろんあって、その数ヶ月間は徹底的に雨が降らない。
僕の第二の故郷グジャラートでは12月から2月くらいまでが乾期とされている。
インドで運動会をするなら絶対この季節だろうと思うのだが、やはりインド人も同じように考えてるようで、一年ぶんの結婚式がこの季節に集中するという。
必ず晴れるから、それに気温も落ち着いて過ごし易いから最適なのだ。
なのでグジャラートにジューン・ブライドは存在しない。
6月に結婚式なんてやろうものなら、晴れるのは奇跡のような確率だし、道路はヒザの上まで浸水してるし、蒸し蒸しとスチームサウナにいるような湿度と気温だし。
周りから相当なクレームが来ることを覚悟しなければならない。
いつの間にかインドの話になってしまったが、したかったのはイビサの話とカミナリの話である。
イビサの夏はほとんど雨は降らないのだが、カミナリは盛大に活動している。
まったく水分を含まない大気を面白半分に切り裂くように、一晩中暗い空で暴れまわる。
そうでなくてもふだんから不思議な雰囲気を湛えている島なのに、カミナリが暴れるような夜は一層と怪しげな空気が張り詰める。
ビルなんてほとんどないので視界が広い。黒々とした巨大な雲塊の狭間からちらちらと生き物のように雷光が踊り出してくる様は完全にラピュタの竜の巣だ。
竜の巣をずっと見つめ続けていると、雷光の一本一本がまるで生き物のように見えてくる。
古代の人間がこれを見て、光輝く巨大な蛇が夜空をのたうちまわっていると理解したとしてもぜんぜん不思議ではない。
西ではドラゴン、東では龍という動物はそうやってできあがったんだろう、と僕も古代人の精神がちょっとだけわかったような気になって思う。
話は変わるが、上の写真はスローシャッターで撮影している。
30秒間レンズを開きっぱなしにして、いくつもの雷光がデジカメのセンサーに光の線を描くままに記録したのだ。
ここに光が存在しなかったらただの真っ黒な絵になるだろう。そこに雷光が線を描き、光線によって照らされた雲塊がその形を表す。
よく知られているコトだが、フォトグラフィという 語句の語源はギリシャ語から来ているのだという。
すなわち、ギリシャ語の「光」を意味する「フォートス」と「描く」を意味する「グラファイン」。
つまり「光で描く」がフォトグラフィの意味するところなのだが、カミナリの写真に限って言えば、「光で描く」というよりも「光が描く」といった方が合っているだろう。
そういえばインドにはカミナリのときにだけ咲くという花がある。
カダムバという名の植物で、インドではそれほど珍しいものではない。
ヒンドゥの神話によると、この植物はもともとインドラという神さまの庭園に生えていたものらしい。
天国の樹だったのだ。
天上の世界にしか生えていなかった植物を、クリシュナという神さまが盗んで地上に持ってきたとされている。
インドラはヒンドゥの世界でかなり偉い神さまで、長い神話の中で頻繁に登場する。
このインドラがカミナリの神さまであることが、カダムバがカミナリのときにだけ咲くといわれる理由なのだろう。
インドラは日本仏教にインポートされて帝釈天となった。
ということはインドのカミナリはインドラが、日本のカミナリは帝釈天が轟かせているわけである。
カミナリは神鳴りだ。
イビサのカミナリはどの神さまの管理下にあるのだろう?
インドラや帝釈天が出張に行ってるわけでもないだろうし、そこにはそこの神さまがいるのだろう。
一瞬、DJスタイルでカミナリを落とす神さまを想像してしまった。