かき混ぜゴハン ヒンドゥ寺院でのお坊さんの食事について
■ヒンドゥ教のお坊さんの食事は「すべて混ぜる」
ヒンドゥ教の寺院には何度も行ったことがある。
インドに行き、友人のインド人の家に泊まらせてもらうと、必ずその家のお年寄りが「お寺に行くからついておいで」と誘ってくれるのだ。
一度だけ、「ここはふつうは立ち入り禁止なんだけど」と言いながら寺院内部のかなり奥の部屋に通された。
そこは位の高い僧侶たちが食事をするための専用部屋らしく、「立ち入り禁止」というのは一般人は入れないという意味。
たまたま僕の友人が長年の間、その寺院に多額のお布施をしている関係で、「この人のお客なら特別で」という感じでその部屋に通された。
上の写真のように、お坊さんたちは車座になり、あぐらをかき食事をとる。
部屋は窓もなく装飾もなくかなり殺風景な部屋。しかも建物の必要以上に奥まった部分にあって、なんとなくコソコソと食事をしているように見えなくもない。
中央に置かれた鉢から、お坊さんたちはそれぞれ料理を自分の器の中に取る。
衝撃的なのは、器に取った後のすべての食べ物を、手でぐるぐるとかき回して、さらに水を注ぎ、またかき回してから食べることだ。
様々な料理がかき混ぜられたその器の中身は、なんとも言いがたいお好み焼きの生地のような物体となっていて、正直言って美味そうには見えない。
なぜこんな食べ方をするかというと、お坊さんたちはこうすることでわざと味をわからないようにしているのだという。
仏教も近いものがあるが、ヒンドゥ教のお坊さんは寺院で「欲から離れる」ことを目的に修行する。
五感を満足させるための煩悩からできるだけ離れること。それが宗教の大きな目的と考えている。
なので、食事は「舌を楽しませるもの」として捉えてはいけない。あくまで「栄養を摂るもの」なのである。
したがってこのぐるぐるかき回し水を注ぐ作法があり、なんとなく隠れるように奥で食事するこの雰囲気がある。すべては同じ宗教上の理由からだ。
食事だけでなく「煩悩から離れる」というテーマこそが彼らの修行の全体であって、彼らの生活はそういった修行に占められている。
そんな修行を長年経たお坊さんは、周囲の人々から王様かと思われるぐらい敬われる。高僧の一挙手一投足を下々の者たちが熱い視線で見守るといった状況に、僕は何度も遭遇している。
この無条件の尊敬ぶりは現代の日本ではあまり見かけないものだろう。
そういったお坊さんご本人も非常に威厳のある姿形と言動をしておられる。
やはり煩悩を捨て去った人間というのは、心の根本の部分からして欲にまみれた一般人とは違うようにできているのだろうと納得するのだが、お好み焼きの生地のような食べ物を毎食食べ続けることがその威厳と尊敬の条件としてあるならば、威厳も尊敬もないふつうのヘラヘラしたおっちゃんでいいかなぁとふつうのおっちゃんである僕は思うのだ。