時間と循環について
インドでは時間のことを神格化して「カーラ」と呼ぶ。
カーラは時間そのものでもあるし、時間を司る神の名でもある。
どちらにせよ、その存在は「何者をもってしても打ち負かせない最強の存在」としてバラモン教の多くの神話や聖典に記述されている。
時間こそが最強の存在なのだ、と。
時間の流れは、またこうも描かれている。
時間は大きな円を描き、巡り巡ってまた元の地点に戻ってくる。その円運動を繰り返しながら、この世はさらに大きな円運動を繰り返す。
これが古代バラモン教から今日のヒンドゥまで続く、時間という概念のインド流の捉え方だ。
時間の流れは一方通行ではなく円運動だ。時間は循環する。またここでは時間と循環は同義語だ。時間は循環であり、循環とは時間のことなのだ。
インドで聞いたこの教えを、僕は高知の田舎に移り住んでからたびたび思い出す。
はるか昔から、何代も前の先祖の時代からこの土地に住んでいる人たちと出会い、その暮らしぶりを覗かせてもらうにつけ、人間の暮らしが循環の中にきっちりと収まる心地よさを実感させられる。
山からの湧き水を家に引き、その水をもってして人が暮らしている。
澄み切ったその水は昼夜問わず出しっぱなしだ。水は流れていって、またいつかこの山に戻ってくるだろう。水をここに留めておく必要がないのだ。
移ろう季節の中で、樹々は其々の時期を得て実をつける。10月の今ならば栗、柿、イチジク。人はそれを拾って、またはもいで食べるだけでいい。
鹿や猪を獲る猟師がいる。
木の実や草を食んで育った山獣を殺し肉を食う。山獣は土に還り、その猟師もまた必ずいつか土に還るだろう。
時間とともに周る循環の輪の中に、人間の暮らしがある。
円運動はどこに行く必要もなく、どこにたどり着く必要もなく、大小の繰り返しの喜びを、大小の輪の回転の喜びを、人間に与えるためにあるのだろう。
インドの古い詩にはこうも書かれている。
「カーラに打ち勝とうとしてはならない。それはすべて無駄な試みに終わるだろう。」