僕がインドに行ったわけ 1
この文章は「僕がインドに行ったわけ 0」のつづきです。
1 バーラット
まず場所をきちんと書こう。
西インド。デリーとムンバイのちょうど中間ぐらいに、グジャラートという州がある。
もうお隣はパキスタンで、かのガンディーの出身地としても有名だ。この州のもっとも大きな都市はアーメダバードという名の街。アフマダーバードとも表記するが、インド人の発音を聞くとどうしてもアフマダーバードとは聞こえない。
アーメダバードを無理やり日本に例えると、浜松のような地方都市、かな。デリーやムンバイなどのように観光客が好んで訪れるような場所ではない。
インドの中では比較的裕福だが、どちらかというと地味な街。
この街から北へ1時間ほど車で走ると、カロールという郊外の小さな町がある。ふつうの、田舎っぽい、埃っぽい住宅街。このカロールがバーラットとその家族が住む町、僕が何年も通うことになる町だ。
バーラットと初めて出会ったのは、カロールの広大な原っぱだった。
広大な原っぱに、バーラットと、バーラットの家族と、バーラットの親戚が総勢30人ぐらいいた。
原っぱの真ん中には3メートル四方ほどの穴が開けられている。深さはだいたい2メートルだろうか。
ヒンドゥ教の僧侶も3人いる。これから何が起こるのだろうと不思議に思い、挨拶もそこそこに尋ねてみる。
バーラットが答えて言うには「この場所にこれから家を建てるんだ。そのために今日は神様に祈りを捧げる。ヒンドゥの儀式だ。」そういえばそんなの日本にもあったな。
そうだ地鎮祭だ。つまりこれはヒンドゥ版の地鎮祭ということだ。
バーラットは4人家族。奥さんのプラティマ、長女のクルッティ、長男のヒマラヤ。この日ヒマラヤだけはどうしても学校を休めなかったということでこの儀式には不在。
そしておばあちゃんやおじいちゃん、叔父さん叔母さん、従兄弟、はとこ、義兄弟姉妹、もっと遠くの親戚、ただの近所の人などなど、その場に居あわせた人々の紹介タイムが延々と続いたわけだが、覚えられたのはほとんど全員ラオって姓だってこと。
バーラット一家の4人を中心に、原っぱに掘った穴に出たり入ったりしながらお祈りの時間が始まる。
ヒンドゥの僧侶も一緒に穴に入り、呪文のようにしか聞こえないマントラ(真言)を唱える。水とミルクと、赤い花びらを穴の底に落としたのは、おそらくお供え物なんだろう。
プラカーシュも儀式に参加して、僕は穴の上から写真を撮っていた。クルッティは少し離れた場所にあるインターナショナル・スクールに通っているそうで、インド人特有のなまりが全くない流暢な英語を話した。この辺りは日本人がほとんど訪れないエリアだそうで、その場にいた多くの大人たちは日本のことに興味津々のようだった。
一通りの儀式が終わると、一行はあっちをぶらぶら、こっちをぶらぶら、と言っても原っぱの中での話だ。
広大な面積の原っぱを、一番足の遅いおばあちゃんのペースに合わせて散策する。正確には散策というよりも「視察」とか「検査」と言った方が正しそうだ。隅から隅まで見て回り、たまにヘビが出たって言っては大騒ぎ。
僕も一緒について廻ったが、この広大な原っぱに、一体どういう家を建てるというのか、全くもって想像できない。広さからするととんでもない豪邸になりそうだが、もちろん敷地内全てが屋敷になるわけではないのだろう。
バーラットとプラカーシュに交互に尋ねてみて、わかってきたのは建設には2、3年かかるってこと。
2年なのか3年なのかはっきりしないが、とにかくそのぐらいゆっくり作るらしい。
まあそれがインドでは普通なんだ、日本では違うのか?と逆に質問されてしまった。そしてもう一つ、建った暁にはこの町で一番大きい家になるんだってこと。どうやらやっぱり豪邸を建てるらしい。部屋がいくつあって、それぞれにお風呂とトイレが付いていて、広いリビングと吹き抜けがあって、神様を祀る部屋も設けて、庭は芝生を敷き詰めて、地下室も作って、なんて話を瞳を輝かせたバーラットから聴いていると、なおさら僕の頭の中の完成図はぼんやりとしたものになっていく。
それでそれで、と聴いていくと、言葉に詰まったバーラットがちょっと恥ずかしそうに告白した。
「実はまだ計画が完成してなくて。正直に言うと私にもどんな家になるのかまださっぱりわからない。」
これにはそばで聞いていたプラティマもクルッティも大ウケで、どうやらバーラットは家の女性陣から「早く設計図作りなさい」というような突き上げを食らっているのが実情のようだった。
「次回、また日本から来てくれたらその時には設計図が完成してると思うよ。」とバーラットはヘラヘラ笑いながら僕に言った。
地鎮祭までやっておきながら未だに設計図もできていないという、日本人の感覚からするととてもカオスな状況に、僕は強烈なインドらしさを感じずにはいられないのだった。
(つづく)