神さまがくれた花 11
この文章は「神さまがくれた花 10」のつづきです。
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その僧侶は短めの自己紹介から話しはじめた。
私はインド人だがアメリカ育ちだ。ハーバード大学に進み哲学を学び、卒業した後ヒンドゥ教に人生を捧げる事を決心し、スワミナライの門をくぐったのだ。
アメリカで育つ過程で触れた文化や文明は捨て去ったのだ。流行の服、おいしい料理、酒タバコ、映画やテレビの娯楽。
そういったものへの欲望を自分の内から捨て去る事から、僧侶への道が始まるのです。
彼の短い言葉の端々には、人生の選択についての確固たる自信を感じさせる何かが漂っていた。こういうものを人は自信とか説得力とか呼ぶのだろうか。
これまでの人生で、そんなに劇的な選択を経てきたわけではない、どちらかというとなんとなくその場しのぎの選択ばかりしているような僕にとっては、そういった種類の言葉を耳にするだけでなんとなく緊張して身体が硬くなってしまう。
成り行きとはいえ、自分が全くそぐわない、とても場違いなところにいるような気分になってしまうのだ。
そんな僕の内心に吹きすさぶ寒風はおかまいなしに、僧侶は話し続ける。
このスワミナライ派は1700年代に始まった。ヒンドゥ教の宗派の中では非常に新しい部類に属する。
初代のスワミ神は北インドで生まれ、宗教的な修行を行いながら北インドを縦断する放浪の旅に出た。当時の旅、もちろん徒歩だ。ごく普通の少年だった彼が、歩き続け修行を続け、その放浪は7年に及んだ。
彼が西インドのある地方にたどり着いた時、彼は彼自身のグル(師)を見つける。彼はそのグルに弟子入りし、ヒンドゥ教の神学やヨガの神秘を次々とマスターしていく。
彼の類い稀な宗教家としての才能に気付いたグルはその死の間際、彼を後継者に指名し、信者や寺やグルの持つ全てを彼に譲り渡すことを決定する。
彼は放浪を止めこの場に落ち着き、信者たちの指導にあたることを決心。信者たちはこの瞬間をもって、彼をグルであり同時に「神の生まれ変わり」として崇めるというスワミナライの信仰を出発させた。
「それが初代のスワミ神サハナジャン・スワミの物語であり、その場所はあなたが今いるこのアーメダバードの寺なのです。」
痛くなりそうなほどまっすぐこちらを見つめながら僧侶は話す。
もう1時間以上僧侶は話し続けていた。そしてもっと話す事がありそうだった。
(「神さまがくれた花 12」へつづく)