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ヴィシュヌ神のアヴァターラ | インドの神さまのコスプレ体質 その4

posted on 1月 9th 2016 in インド with 1 Comments

「ヴシュヌ神のアヴァターラ | インドの神さまのコスプレ体質 その3」の続きです。

最初から読む「ヴィシュヌ神のアヴァターラ | インドの神さまのコスプレ体質」

 

  9, ブッダ(釈迦)

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ヒンドゥ圏以外ではそれほど知られていないが、仏教の祖ブッダも実はヴィシュヌのアヴァターラなんである。

現時点でヴィシュヌがこの世に姿を現した、その最後の化身と言われている。

ただこれ要注意だが、あくまでヒンドゥ側の説であって仏教はこのことを全く認めていない。

その理由は、ヒンドゥ教側に都合よく偏ったその説にある。

ブッダはもちろんインド出身。

北インドの小国の王子として生まれた。

当時のインドはヒンドゥ教の前身であるバラモン教が幅を利かせている世界。

そしてカーストの頂点に君臨するバラモン(僧侶)階級が支配していた。

いわゆるスーパー階級差別社会だったのだ。

バラモン教の世の中に生まれたブッダは、バラモン教の教えを土台にしながらもこの階級制度を全否定した。

前世で悪いことをしたから底辺の階級に生まれたんだと言われ差別を受けていた人たちに、それは本当ではないと言い切った。人間は平等であると。

非暴力を説き、神さまに生贄を贈る習慣も否定した。つまり祭祀のために動物を屠殺するバラモンの教えを否定した。

そんな仏教が勢力を伸ばしていくのを見て、慌てたのはバラモン教だった。それを認めてしまうとバラモン教の社会秩序が崩壊してしまうからだ。バラモン教から見ればブッダは身内から出た鬼子のようなものだったのだ。

仏教勢力とバランスをとるために、ブッダの死後、バラモン教はなんとも形容しがたい妙手を打つ。

それはブッダをヴィシュヌのアヴァターラとして仏教勢力を吸収しようとしつつも、バラモンの秩序もそれまで通り変化させないためのもの。

■ブッダはヴィシュヌのアヴァターラである。

■この世にブッダ(ヴィシュヌ)が生まれてきた目的は、悪魔たちに誤った教えを説いてその心を惑わすためである。

■結果、多くの悪魔たちはブッダの言葉に惑わされ、ヴェーダの道は破壊され、全ての人々は仏教徒となった。ブッダ(ヴィシュヌ)とともに逃げ場を捜した彼らは、迷わされた。

ヴェーダの道っていうのはバラモンの教えと考えていい。

これがヒンドゥのブッダに対する見解だ。

ヒンドゥ教からの視点で見れば、なんとも老獪な説を思いついたと喜んだんじゃないかと想像している。

ブッダを神の化身とすることで衝突することなく仏教を吸収することに成功した。その上でブッダについていった仏教徒たちを悪魔・迷わされた人としてバラモンの教えの正当性も主張できるのだ。

なんとなく真綿で首を絞めるようなこんなやり方を、ヒンドゥ教は何千年も繰り返してきて今に至るんじゃないかと想像している。そしてその想像は当たっている気もする。

こういういやらし〜い底なし吸収システムはヒンドゥに特有のもので、良くも悪くもヒンドゥの多様性のなせる技だろう。

なんせ神さまの数は3億だとか33億だとか言って論争しているようなふざけた宗教なので、この上もうひとり増えたところでどうってことないんである。

こういう芸当はキリスト教やイスラムにはどうしたってできないだろう。どっちが良いって話でもないが。

次に、カリ・ユガのはじまりにおいて、デーヴァ(神)の敵どもを混乱させる目的のため、キーカタ人の間で、彼はブッダという名の、アルジャナの息子となる。— 『シュリーマッド・バーガヴァタム』1:3:24

そういった経緯があってのブッダ=ヴィシュヌ説なので、ヒンドゥ教徒には当然のことながらブッダはそれほど人気がある神さまではない。

ただこれも歴史の皮肉なのかそれとも歴史は繰り返すということなのか、ブッダの死後ほぼ壊滅状態になったインドの仏教は現在とんでもない勢いで信徒の数を伸ばしているのだという。

その理由もブッダの時代とあまり大差なく、やはりカースト制度において底辺に置かれ差別されてきた人々が、こぞって平等を説く仏教に改宗しているからなんである。

歴史はおもしろい。

*参照:現代のインド仏教のこと。

佐々井秀嶺というインドの英雄

* * *

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* * *

以上、大亀クールマからブッダまでが、現在までに出現されたとされるヴィシュヌの化身9つ。

残る最後のひとつは、今後現れる予定のアヴァターラである。

* * *

10,  カルキ  (Kalki)

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* * *

10番目のカルキはこれから出現するとされている。

カルキを説明するには、ヒンドゥ教の時代の考え方から始めたほうがいい。

大まかに言うとヒンドゥでは、時間は4つの時代に分類され、その4つが繰り返し循環すると考えている。

その時代をユガと呼び、具体的には以下の4つになる。

  1. サティヤ・ユガ
  2. トレーター・ユガ
  3. ドヴァーパラ・ユガ
  4. カリ・ユガ

この4つの順に移行して、4の後にはまた1に戻るとされている。

ヒンドゥ教によると、現代のこの時代は4。

私たちは4のカリ・ユガの時代を生きている。(3という主張もある)

カリ・ユガはどんな時代かというと、これがなかなかひどい(笑)

カリとは悪魔の名前。

つまり悪魔カリの時代。別名、暗黒の時代。または悪徳の時代。1から順に時間が流れ、末期の時代がカリ・ユガとされている。

またカリは男性の悪魔なので男性性の時代とも言われる。

このカリ・ユガは悪魔カリが頂点で支配する時代。

そして悪魔カリの宿敵とされているのが10番目のアヴァターラ、カルキである。

この世のすべての秩序が失われたカリ・ユガの終わりに、カルキ(ヴィシュヌ)はカリと戦うために現れ、勝利した末に救世主となり次の時代を拓く。そうヒンドゥは考えている。

カリは上の図のように白馬に乗った騎士の姿とされていることが多い。

また頭が馬の巨人の姿という説もあって、それが下の図のようなもの。こっちの方が個人的にはぶっ飛んでておもしろいと思っている。

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花が花を咲かせるとき、果実が果実を実らせるとき、ユガは終わる。ユガの終わりが近づけば、季節外れの激しい雨が降る。

じゃあこのカリ・ユガの時代が終わるのはいつなんだ、そんな疑問が湧くのは自然の話。

ヒンドゥにもいろいろな意見があるそうだが、主流の考え方としてインド人が主張するものは以下のようだ。

カリ・ユガ全体の長さは43万2000年。カリ・ユガが始まったのが5113年前とされているので、ということは今年から数えて42万6887年後が、救世主カルキの現れる年である。

四捨五入して42万年。

なんてこった、誰もそれを確認できない。

ちなみにカリ・ユガの後には再び1のサティヤ・ユガに戻るのだが、これはけっこう素晴らしい時代とされている。

貧富の差がなく、労働の必要もなく、病気もない。知識と瞑想と修練がこの時代では特別な意味を持つという。

人間の平均寿命は4000年。この時代自体の長さは172万8000年。

古代から続くインドの占星術師や学者たちが長い年月をかけて割り出した数字なのだという。

この稿との関連でいえば、ヴィシュヌのアヴァターラのうち、最初から4番目、マツヤ・クールマ・ヴァラーハ・ナラシンハまでが前回のサティヤ・ユガの間に起こったことだということだ。

話を戻すと、カルキはいくつか別名を持っている。「永遠」「時間」「汚物を破壊するもの」などがそう。

最後の「汚物を破壊するもの」というのはあんまりありがたくない気がするが、これは悪魔カリを倒す者という意味なのだろう。

「永遠」「時間」この2つの語はインではときとして同じものを指す場合がある。どちらもインド文化の最重要テーマとされている。

偶像化、人格化、キャラ化が大好きなインド文化では、「時間」という概念もたびたび人や神の形をとって世に現れる。

多くの場合は「カーラ」という名前で表されるのだが、カルキも「時間」を神格化したものという側面を持つのだろう。

ちなみにヒンドゥでは「時間」が何よりも強く、神以外の誰もが「時間」には抗えないと言っている。

時間が全てを滅するというのが、インド文化の表現全ての共通するテーマである。

日本語で言えばカルキはいわゆる「諸行無常」を具現化したものと個人的には思っているのだが、どうだろう。

* * *

以上がヒンドゥ教における最高神ヴィシュヌの10のアヴァターラにまつわる物語だ。

ヴィシュヌという神は最上級の太陽神であり、サンスクリットで「広がる」「行き渡る」という語に由来する。

それはヴィシュヌが太陽光線を神格化したものだという事実を示唆している。

そのヴィシュヌが見せる10の化身は、ここで紹介した通り、魚から始まり、亀→イノシシ→獣人と進んで行くわけだが、これは地球上の生命の進化を示しているという説もある。

つまり、海の中の生命(魚)から両生類(亀)へ、陸の動物(イノシシ)、半人半獣(人類の興り)といった一連の生命が辿った軌跡を表しているのである。

そして矮人ヴァーマナ以降のアヴァターラは人類の進歩を道程を表すともいう。

不完全な存在(ヴァーマナ)から、基本的な進化の終了(パラシュラーマ)へ。そして統治能力の象徴(ラーマ)、文化的能力の発露(クリシュナ)と進み、精神的な完成(ブッダ)を表しているのだという。

真相は後付けなのかもしれないが、そう並べられてみるとなかなか納得してしまう。

* * *

現代日本に生まれて育った僕らは、日本文化の土台の上に西洋文化がコーティングされたような現実の中を生きている。

例えば年を表す年号は西暦が最も伝わりやすいし、平成や昭和ではすぐに今年何年だっけ?みたいな話になってしまう。

皇紀という単位があるが一般的には誰も使っていない。1945年の終戦までは有る程度使っていたようなのだが。

重箱の隅をつつくようなことを言えば、キリスト教徒でもない僕らがキリストの誕生を起点とした暦を使っているのも実はおかしな話なのかもしれない。その物差しは世界のある地方のものであって、それが唯一無二の物差しではないからだ。

インドのヒンドゥ教に則った文化は、長い年月に裏打ちされていると同時に現代でも社会に強い影響を与えていて、言ってみれば「生きている」古代文化とも言える。

いや本当は影響を与えているどころではなく、ヒンドゥ=インドであるし、インド人は生まれてから死ぬまでヒンドゥの中で生きていると言った方が合っているというぐらい、ヒンドゥ系のインド人にとってヒンドゥの教えは全てに近い。

日本にずっといると、そのヒンドゥ神話や文化や絵図はなかなかヘンテコなものに見えるはずだが、いっぺんそっち側に立って世の中を見てみると、実は西欧文化だって日本文化だってなかなかヘンテコじゃないかと思ったりするのだ。

自分が持ってる物差しが全てではないのだよ。そうヒンドゥの神々は語りかけているような気がするのである。

* * *

おわり

最初から読む「インドの神さまのコスプレ体質」

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石川拓也 写真家 2016年8月より高知県土佐町に在住。土佐町のウェブサイト「とさちょうものがたり」編集長。https://tosacho.com/

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