1月
15
40年前の言葉
伊弉諾の森を出て郡家の古道をたどりつつ、われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、「公」という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないかと思った。
淡路の山野は本来人間の暮らしをたすけて美しく手入れされていたものだが、土地を投機の対象にするというここ十年来の意識の蔓延で汚れはててしまっている。
日本は資本主義国だというが、たとえば英国やフランス、アメリカといった国で、農地や山林を投機や思惑の対象にしてほうり投げ合いをしているような状態があるだろうか。フランスの百姓は悠々と葡萄をつくり、ロンドン近郊の牧場主が、坪いくらするなどという滑稽な計算をすることなく、ひたすらに牧草をそだてている。
日本では、本来自然であるべき大地が、坪あたりの刻み方で投機の対象に化ってしまっているというのは、元来、生産を中心とするはずの資本主義でさえないのである。現行の経済社会そのものを自滅させつつあるバケモノのような奇妙な経済意識が日本人の心と自然を荒廃させたあげく、その異常な基盤のなかから総理大臣の座まで成立させてしまった。日本は、日本人そのものが身の置きどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっているのである。
日本は、土地を財産としても投機対象としても無価値にしてしまわねば、自然の破壊などという前に、精神の荒廃が進行し、さらには物価高のために国民経済そのものが破産してしまうにちがいない。
「明石海峡と淡路みち」 司馬遼太郎 1974年