Posts Tagged with: 西蔵

8月
02

チベットに行ってもいいですか? 6

posted on 8月 2nd 2011 in 1995 with 0 Comments

のつづき)

うとうとと眠くなる。

出発してからこのかたきっちり眠れていないので、昼間にも睡魔がやってくる。高度のせいで徐々に酸素が薄くなってきているのだろうか。少し、頭が痛い。

窓の外にはヤクの群れが緩慢な動きで草を食んでいる。チベット帽をかぶった少年が数人、投げ縄の練習をしているのが遠目に見えた。圧倒的な大自然の表面に、小さな点のようにへばりついている人間の暮らし、それが窓から徐々に見えてくるチベットだった。

もういちど、ゴルムドのあの男と出会ったときを思い出していた。僕がゴルムドに到着した夜、あの男は安ホテルの僕の部屋をノックした。少しだけ開けたドアの隙間からヌッと出てきた顔は、マンガのネズミ男にそっくりだった。これほどネズミ男に似ている顔が実際に存在することに驚いた。

ギョロッと両目を光らせて、ネズミ男が何やら話しだした。早口の中国語で内容は全くわからないのだが、シージャン、ラーサといった単語が所々に出て来たので、夜の街へ遊びに行こうというお誘いでないことはすぐに理解した。僕が中国語をちっとも理解しないので、もどかしそうに男は紙とペンをポケットから取り出し、西蔵、と書いてから僕の顔を指差した。

西蔵は中国語でチベットのことだ。お前はチベットに行くのか?とごく単純なことを質問していたのだ。シー、と答えると、ネズミ男は少し不敵な笑みを見せ、そのことで話がある、とばかりに身を乗り出した。もう喋って意思の疎通をはかることは諦めたとみえて、達筆でさらさらと紙になにやら書き込んだ。

突然、脇腹を小突かれて、ネズミ男の回想は中断された。揺れるバスの中、隣席の男が中国語で話しかけていた。やはり何を言っているのか理解できないが、この様子だとおそらく何度か話しかけ、僕に反応がないことに少々いら立っているようだった。脇腹が少し痛んだ。

僕は男と目を合わせたが、それ以上は何も反応を返さなかった。男が発した言葉は虚しく宙を漂っていた。僕に無視された格好になった男はさぞかし不愉快な気分だろうと想像したが、男はそれほど気にするふうでもなく、ちょっとだけ肩をすくめ、足下に置いた自分のカバンをゴソゴソと漁り始めた。

出発してから何度もこんなことを繰り返している。もちろん本心からのことではない。僕の方こそ、周りの乗客に話しかけ、ここはどこなのか?目的地まであとどのくらいなのか?検問はあといくつあるのか?訊きたいことは山ほどあるのだ。

だが今の僕は、そのうちのひとつも尋ねることはできなかった。それどころか、中国語が「わからない」ことを周囲に悟られてはいけなかった。それがネズミ男のもうひとつのルールだったからだ。

(つづく)

こんな記事も読まれています


チベットに行ってもいいですか? 2


チベットに行ってもいいですか? 5

本文を読む
8月
01

チベットに行ってもいいですか? 5

posted on 8月 1st 2011 in 1995 with 0 Comments

(4のつづき)

僕はタイミングを計っていた。

車内には乗客達が戻り始め、外には運転手を含め4、5人が残っていた。最後のひとりが食事を終え店を出たとき、できるだけ目立たないようにしかし速やかに、僕はバスの外に出た。片手にほぼ空の瓶を持ち、そのまま一直線に店に向かい、食料品店のカウンターに並んでいるものを大急ぎで物色した。

残念ながらそこには充実した食事になり得るものは一切なく、ただただスナック菓子やガムやタバコが置いてあるだけの貧相なものだった。その中からビスケットというよりは乾パンに近いような包みを3つ手に取り、黙って中国元の札をカウンターの中のおやじに手渡した。傍らに置いてあるポットに入ったお湯を、僕のお茶の瓶に移す。これでまたしばらくお茶には困らないだろう。

そそくさと店を後にしてバスに向かうと、もう僕を除く全員が車内に収まって、僕が乗車するのを待っていた。
乗客達が温かい食事を取っているときにはバスから降りようともしないで、皆が出発する頃になっていそいそと乾パンだけ買いに行くような男を、やはり大半の人間は怪訝な表情で見守っていたようだ。それも今回が初めてではなく、出発以降、食事時には似たような行動を繰り返している。そろそろ周りの乗客の好奇心もかわせないほど大きなものになってきているのかもしれない。それでもバスの後方に位置する僕の座席に戻るまで、誰も僕に話しかけて来なかったのは幸いだった。もし話しかけられていたら、僕はそれを無視しなければならない。何も聞いていないかのように、無視しなければならないのだ。

バスはまた走り出し、揺れる車内で乾パンとお茶の朝食を素早く済ませた。乾パンは味がしなかった。車内は相変わらず暑かったが、コートは脱がなかった。窓から差し込む朝日がジリッと肌を焼いたような気がした。チベットの太陽だ、と思った。空が近いのだから、太陽だって近いんだ、と妙な理屈にひとり心の中で頷いた。

(つづく)

こんな記事も読まれています


チベットに行ってもいいですか? 2

本文を読む
1月
20

チベットに行ってもいいですか? 2

posted on 1月 20th 2011 in 1995 with 0 Comments

(1のつづき)

座席は隙間なく乗客で埋まっていた。

チベットに向かうバスにも関わらず、チベット人は乗っていないようだ。見渡したところ僕を除く全ての乗客が中国人のようだった。エンジン音だけが響き渡る無言の車内で、僕はまた浅い眠りに落ちていった。

どのぐらい眠っていたのだろうか、不規則なエンジンを吹かす音で目が覚めた。バスは停まっていて、さっきまでいたはずの乗客たちが車内から消えていた。運転手はハンドルを握り、アクセルを踏み込んでいる。エンジン音にタイヤが空回りする音が混ざる。

前方の開いているドアから外に出る。汗ばんだ肌が冷たい外気に晒されて急に冷めてくる。乗客たちはバスの後方に集まりひとつの固まりのようになっていた。どうやらタイヤを砂に取られスタックしてしまったようだ。バスの窓から漏れるぼんやりとした光を頼りに僕もその固まりに加わった。タイミングを合わせて力を入れる。20回ほど繰り返して、やっとバスは砂を蹴って動き出した。

乗客たちは無言でバスに戻る。旅が始まってまだ1日も過ぎていないうちに、誰もが疲れていた。僕も座席に戻り、堅いシートに身体を預けた。そしてまたバスは不規則に揺れ始めた。

外に出て冷えきった体がすぐにまた熱を帯びて来る。足下から熱気が上がって来ているのだ。座席に座った僕の両足の間を、銀色の鉄パイプが這っていて、出発してからずっとこれが熱気を放っていた。どうやらこの鉄パイプが車内の暖房の役割を担っているようだ。鉄パイプはおそらくエンジンのどこかに直結していて、その熱をぐるりとバス全体に拡散する仕組みになっているのだろう。

この暖房が、出発してからこのかた、暑すぎるのだ。

ゴルムドを出て早々、周りの乗客はコートを脱ぎシャツの腕をまくった。僕もそうしたかったし、そうすべきだったのだが、出来ない理由があった。

ゴルムドのあの男と僕だけしか知らないルールがあったのだ。あいつが大真面目に僕に課した厳格なルール。そのひとつが、「コートを脱いではいけない」だった。

出発前夜、どこをどう歩いたのか皆目見当もつかないような路地の奥。裸電球がぼんやりと照らす露天の古着屋にあの男は僕を連れて行った。

あっさりと「これを買え」とあいつが選んだものは、あちこちシミの付いてすり切れた中国人民軍のカーキ色のコートだった。300円ほどの古着を言われた通りに買いそのまま着てみると、その外見とは裏腹に造りは大層頑丈で分厚いものとわかった。軍用品だ、と実感したが、コート全体から発するかび臭さには閉口した。

僕は忠実に男とのルールを守り、そのコートを一度も脱いでいない。半日経った頃には身体から饐えた匂いが漂い始めていた。

(つづく)

こんな記事も読まれています

本文を読む