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インドに一週間ほど行って来た。
詳しい話はまた別の機会に書きたいと思っているが、毎回インドを訪れるたびに持つ感想がある。
インドの挨拶は美しい。
例えば、親戚のおばあちゃんに会う。
年下のひとはお年寄りの前にかがみ、そのサリーの裾、または足を軽く手で触る。
そのままその手で自分の眉間をさわり、胸のあたりをさわる。
この一連の動作を流れるような所作でもって行う。
年長者に対する敬意と愛情をこの動作で表すのだという。
アーメダバードという都市にほど近いカロールという村で、インド人の友人の家にお世話になったのだが、滞在中は僕もよくこの挨拶をした。
軽い感じでこの挨拶をすることもあるし、帰国する前のお別れではもっと正式な、土下座に近い格好でおばあちゃんの足をさわって、おばあちゃんは僕のために旅の無事を祈ってくれた。
インドの人々がこの挨拶をするのを目にするたびに、何千年も以前から変わることなく繰り返されてきたその動作に、シンプルだがとても完成された美しさを感じる。
ラーマヤーナというヒンドゥーの聖典に登場するラーマ王子とシータ姫がまったく同じ動作をしているので、神話の世界からずっと同様の所作が続いて来ているのだろう。
まったくの蛇足、かつどうでもいい話だが、友人の親戚のひとりはカロールという村でトヨタのカローラを乗り回していた。
名前のおかげというわけではないだろうが、とっても気に入っているそうだ。
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LADY GAGAにハマってしまった。
数日前の話になるが、来日中のLADY GAGAのライブを撮影する機会があった。
化粧品メーカーMACの主催するエイズ基金のチャリティイベントで、シークレットライブということで通常のライブ会場とは比べ物にならないほどのアットホームかつこじんまりとしたステージだった。
仕事での撮影なのでここにお見せすることができないのは残念だが、運良くステージ最前に位置できたこともあり、ありえないぐらいの近さにLADY GAGAがパフォーマンスしていた。ときとして50cmぐらいの距離に彼女が近づいて来てくるものだから、広角いっぱい24mmにしても近すぎるので、そんなときは少し後ろにのけぞりながらの撮影になった。
過去にライブ撮影は数多くしてきたが、ステージや会場の条件などで、パフォーマンス中のアーティストにそこまで近づけるというのは珍しい。
通常のライブはもっとステージが大きいのがふつうだし、柵や機材やセキュリティが行く手を阻む場合が多々あるのだ。僕の好みとしてはライブ写真はやはり被写体に近づけるだけ近づいて広角レンズで撮りたいと考えるので、ルールを守った上でどこまでアーティストに近寄れるか、というのがどの撮影でも第一の課題になる。
今回のLADY GAGAの場合は理想的にうまく事が運んだ結果で、少々興奮気味で気を良くしながら会場を後にした。
そう書きながらお恥ずかしい話であるが、正直に言うとそれまでLADY GAGAの曲はほとんど聴いたことがなかった。しかしライブで実際に見聞きした彼女のパフォーマンスは圧倒的で、こんな存在のためにひとはオーラという言葉を使うのだろうと思わせるものだった。世界のポップシーンのど真ん中で、名実共に今の時点で「私がいちばんよ」と断言できるのは彼女だけなのだろう。そんな全く隙のない圧倒的な自信を彼女が持っていたのを感じたし、そういった自信が彼女のオーラを作っていくのか、オーラを持って産まれたからここまで登り詰めたのか、どちらが卵かニワトリかは定かではないが、とにかくそのピカピカな自信が彼女の、曲やパフォーマンスをというよりも、存在自体を凄みのあるものに感じさせているのは間違いない。
そんなことを考えながら家路につき、当然のようにyoutubeでLADY GAGAを検索する。
そして、ハマってしまった。
そこそこ強い中毒である。ここ数日、LADY GAGAの曲が頭から消えることがない。外出しているときでもふとした瞬間に “BAD ROMANCE” のPVを見直したくなる。あの違和感満載、変態的、かつ完成度の高いビジュアルがちょっとしたクセになるのだろう。しばらくは頭に住み着いたLADY GAGAが立ち退いてくれそうにないのだ。
それで思い出したのだが、NYに住んでいた頃知った言葉で “MTV ADDICT” というものがあった。MTV中毒だ。現在よりネットが普及していなかった時代に、朝から晩までピザやハンバーガーにコーラを片手にMTVを見続ける、そんな人種がたくさん出現した。MTVは視聴者をつなぎ止めるためにより中毒性の強いコンテンツを垂れ流し、視聴者はより強い刺激を求めて次々と流れるPVを飽きもせず繰り返し眺めていた。
イーストビレッジでアメリカ人のアパートをルームシェアしたことがあった。ある真夜中喉が渇いて飲み物を取りに行こうとして、真っ暗なリビングにテレビがつけっぱなしになっているのに気づいた。スイッチを切ろうと思いテレビに近寄った一瞬後、家主がソファに座って無言で画面を見つめているのに気づき、「13日の金曜日」でジェイソンに殺されかけた人と同じぐらいビックリしたことがある。真っ暗な部屋で両目だけがテレビのせいで光っていた。そのときに流れていたのはやはりMTVだったから、彼もまた中毒だったのだろう。余談だが彼はそのうえドラッグ中毒だったことが早々に判明したので、ケンカになり2ヶ月ほどで僕はアパートから追い出されることになる。
話を戻すと、MTVはより多くの視聴者が欲しい、視聴者はより気持ちよくなるPVが見たい、アーティストやプロダクション側はより多くのひとに曲を買ってもらいたい、それらは当然の欲求であって、それが資本主義的な価値観の中で語られた場合、良い商品イコール中毒性の強いもの、という公式ができあがる。
ここで語られているのは芸術的な優劣ではなくあくまで商品としての優劣だ。しかし芸術的な優劣というものが観念的、ともすれば専門的なものさしであるのに対して、商品としての優劣は数字で売り上げとして具体的に示されるものだから強力だ。全米ヒットチャート1位、世界総売上何万枚、といった言葉は世界中のどの人種にもわかり易すぎるほどわかり易く伝わってしまう。中毒者が放つ熱狂や散財は数字になってまた新たな中毒者を産む。隣の人があれだけ中毒してるんだから、そこにはなにかがあるのだろう、と考えるのは人間として自然な心理だろう。
考えてみれば昔から、人間はなにかに中毒しながら生きて来た動物であって、言い換えればより中毒性の強いものを次から次へと発明しながら現在までたどり着いたのが人間の歴史なのかもしれない。
ドラッグの類いは古代からマリファナが使用されてきたのだし、マルクスの「宗教はアヘンだ。」という言葉からも想像できるように、宗教も間違いなく中毒性があるのだろう。そのマルクスが生み出した社会主義思想もまた強い中毒性があったことは歴史が証明している。
身近な例で言えばマックのハンバーガー等のジャンクフードやスタバのコーヒーに中毒症状を示す人は僕の周りにも昔からいた。僕はどうしてもタバコがやめられない。ジョギングにハマって雨の日も走らなければ落ち着かないなんて人も、命がけで岩を登るクライマーも、スピードに魅せられた走り屋なんかも総じて中毒なのだろう。最近ではタイガー・ウッズのセックス依存なんて言葉も話題になっていた。
人間は、中毒から自由にはなれない。
自由にはなれないが、何に対して中毒するかという選択(または偶然)が残されている。
以前インドを旅したときに、ヒンズー教の寺院の奥に入れてもらったことがあった。そこはヒンズーの僧侶がタイル張りの床に車座になって座り、托鉢で信者から得た食べ物を食する部屋で、見ていると僧侶たちは全ての種類の食べ物を少しずつ自分のマイどんぶりに入れ、その上からドボドボと水を注ぎ入れたあとすべてをグルグルとかき回して、まるでお好み焼きの生地のようにして食べていた。
正直に言えば僕には決しておいしそうには見えなかったが、それも当然で、これはどうやら食に対する煩悩を断ち切るための作法であって、味に対する欲求、言い換えれば味覚の中毒を限りなくゼロにして食事を生存のための栄養を採る行為と捉える、そういう考え方の現れなのだそうだ。そうやって僧侶は衣食住、快楽などの中毒を捨て去ることをひとつの目標に生きるのだろう。唯一の中毒の対象を宗教に置いているのだ。
翻って日本を見てみれば、宗教こそ中毒の対象としての魅力を失いかけている気がするが、さらに強力な中毒の対象は日常生活の至るところにあるように思う。
その筆頭はやはり食なのだろう、こんなに食べ物に対して好奇心旺盛で、街のあちこちに様々な国のレストランを見つけられるのは世界を見渡しても日本ぐらいではないだろうか。
先に例に出したジャンクフードは言うまでもないが、僕の周りではラーメン中毒者がとても多く、ひととおり食事をして呑み終わっても、ラーメン屋に寄って行こうと言って聞かない友人は間違いなく中毒症状を呈しているのであろう。
そうしてみると中毒というものは個々人や場所や人種や文化で姿を変え形を変え、対象は変わって来るが人間とともにあり人間の中にあり、人間そのものなのだろう。
怒られるかもしれないが、中毒という水平線からこの世の中を見てみれば、
「あなたは神を信じますか?」という問いかけも、
「うちの豚骨ラーメンうまいっすよ!」という呼び込みも、
「タバコ、やめたいんだけどね、、、。」というあきらめも、
「バァッッドォロォーマァァンス!」というLADY GAGAの雄叫びも、
中毒の原因であり結果であるという点においては違うところは全くない。
それがときとして戦争を起こしたり、警察に逮捕されたり、太っちゃったり、浮気がばれて謹慎したり、そんなことの引き金になってしまうこともあるのだろうが、それが素晴らしい芸術や、多くの人を救うような発明や、目の前の人を笑顔にするアイデアなんかを生み出す原動力になることだってあっただろうしこれからだってあるにちがいない。
食や栄養に対して敏感な一部のアメリカ人がよく使う表現で、”What you eat is what …
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