ある日のできごと 2
(1のつづき)
森の中に迷い込んだ人間がその森の大きさを知ることができないように、この街の人間が、事件の全貌を完全に理解したのは、世界中のどこよりもずっと遅かったのではないだろうか。
学校や会社が突然の休業になったにも関わらず、笑顔を見せる人はバスの中にはひとりもいなかった。
起こったことの様相を知ることは出来ないが、確かに重大なことが起こったのだということは誰もが感じていた。
家に戻り、テレビをつけようと思ったがアンテナに接続していないことを思い出し、近所のメキシコ人が営んでいる食堂へ行った。午前中にも関わらず、食堂のテレビの前ではいろいろな人種の男達が十人ほど集まっていた。みな完全な無表情で、ひと言も発することなく画面を食い入るように見つめている。
コーヒーを頼み、テレビの前に座る。テレビは一機目の飛行機が見慣れたビルに衝突する瞬間を繰り返し流していた。
その映像は言葉を一切拒否するような威圧感で、周囲の男達が沈黙する理由を僕も理解した。黙って画面を見つめていると数分後にカメラはひとりの男を映し出した。
史上最も暗愚な大統領、と後に揶揄されることになるその男は、目にうっすらと涙を溜めこの国に語りかけていた。
悲劇、大惨事、テロリズムと、大統領が発する言葉はやはりどれも大きな異変を告げるものばかりだったが、起きてしまった事実の大きさの前で、その声はあまりにもか細く無力に感じられた。
画面が再び切り替わり、二機目が衝突する瞬間を写し出した。そしてその後に続く110階のビルが崩壊に至るまでの映像は(その中には逃げ場を失った人々が高層ビルの窓から飛び降りる瞬間のものも数多くあった)、完全に理解の範疇を越えていて素直に受け入れられるものではなかった。
もし起こったことを言葉で伝えられたら受け止め方はまた違うものになっていただろう。簡単に受け止められない事実を前にしても、その残酷な映像は問答無用でそのことが「実際にあった」ことを証明し、待ったなしでこちらの心を潰しにかかってくる。本当なのか?という疑問はあらかじめ拒否されているのだ。
それでもその映像がなにかしらSF映画のような胡散臭さを放っていたことにほんのわずかな望みを抱いて、今すぐ自分の目であのビルを見に行こう、と決めた。
5分ほど歩けば川岸に出る。ふだんなら対岸に二棟の高層ビルが一望できる場所だ。
(3につづく)