6月
23

梅雨とチャイとブランコの話

posted on 6月 23rd 2012 in インド with 0 Comments

梅雨の厚い雲が一時切れて陽光が差し込む朝は、ベランダに出て貴重なものを味わうように光を浴びる。

こういうときに狭いながらもベランダがあるというのはありがたいもので、なければないで外を歩いてきたりすれば良いだけの話だが、朝の起き抜けに久しぶりに見た太陽を感じながらお茶を片手にぼんやりとする瞬間は、それに続く一日をちょっとだけ穏やかに彩ってくれるような気がする。

 

そう書いて思い出したが、インドのベランダというかバルコニーの充実度はとても心地よいものだった。インド全域のことなのかどうかはわからないが、ぼくがよく訪れるアーメダバードという街のアパートやマンションには、居住面積に比してかなり大きなスペースをバルコニーに割いているところが多かった。

 

一週間ほど泊めてもらった家庭では、2LDKの間取りに二部屋分ぐらいのバルコニーが付いていた。高級マンションではなく、あくまで庶民的なアパートの話だ。

 

インド人は朝寝坊がふつうなので、目覚めるのはたいていぼくが一番早い。朝起きるとそのままバルコニーに直行し、水を飲みながら眼下の通りを牛やサルが通り過ぎるのをぼ〜っと眺めていた。2Dで移動する牛と違いサルは縦横無尽に3D移動するので、キッという短い鳴き声に振り向くとぼくのすぐ後ろにサルがちょこんと座っていたこともあった。

 

このインド式バルコニーにはたいてい「ジュラ(JHULA)」と呼ばれるこれまたインド式のブランコが付いている。いや正確には「付いている」どころかバルコニーの中央に、堂々と鎮座していたりする。繰り返しになるが、あくまで庶民的なアパートでの話だ。

 

ジュラはたいてい天井から太い鉄鎖でぶらさがっていて、座面は3人ぐらいが余裕で坐れるような長いベンチであったり、それが高級マンションだと巨大なソファがそのままつり下げられてゆらゆら揺れていたりした。

 

一番に起きたぼくがサルや牛を眺めながらゆっくり過ごしていると、次に起きてくるのはだいたいおばあちゃんで、「飲みなさい」といって熱々の濃厚なチャイを差し出してくれた。

 

これが例外なくうまい。

 

世界中のどこにいても、身体が求めている食物を求めているタイミングで口にすることができる瞬間は、なにか「うまい」という味覚を越えた、身体が喜ぶような快感を感じることがあるのだけれど、おばあちゃんのいれてくれた毎朝のチャイには例外なくそれを感じた。

 

インドの気候でインドで作ったチャイが、インドにいるぼくの身体に喜びをもたらすというのは考えてみれば道理な話で、こういう感覚を理屈っぽくしていくともしかしたらマクロビとかに繋がってくのかもしれない。あ、マクロビのこと全然知らないんだけども。

 

「ジュラ」に話を戻すと、おばあちゃんはぼくがチャイを飲むのを見届けると、一度キッチンに戻り、自分のチャイを持って来てジュラに坐る。ゆらゆらかすかに揺れているベンチの端に坐り、真ん中あたりにチャイのコップを置く。

 

おばあちゃんが話すグジャラート語をぼくは理解できなくて、ぼくが話す英語をおばあちゃんは理解できない。だから、とても静かで、でもあたたかい感覚だけがバルコニーに流れる。

 

たとえばぼくがサルに注意を奪われて、しばらく目を離した間なんかに、おばあちゃんは目を閉じあぐらをかき、ちょうど坐禅をしているような体勢でジュラにゆっくり微かに揺られているときがある。

 

その感覚をぼくは言葉で説明できないけれど、いつもそういうおばあちゃんを目にするたびに、「とても良い」と思う。特別神々しいわけでもないし、光り輝いてるわけでもなくいつものおばあちゃんなのだけれど、なにか「良いな〜」と思わせてくれるものがある。

 

10分、20分と瞑想を続けた後、目を開けたおばあちゃんがいちど話してくれた。

 

「これは、ヨガだよ」

 

あんたも毎日やりなさい、心と身体に良いから、とおばあちゃんは言ったのだが、そのときぼくにとっての拙いヨガのイメージは、「イヌのポーズ」とか「ワシのポーズ」(そんなのあったよね?)などのもっと動きのあるものだったので、おばあちゃんの言葉には意外な響きがあった。

 

ヨガはこんなポーズとかするんじゃないの?いくつか実際にポーズを取りながら訊ねたぼくに、少し嬉しそうな笑顔でおばあちゃんは言った。

 

「それもヨガだけど、ヨガは呼吸。呼吸がヨガ。あんたもおぼえて日本帰ってもやりなさい。」

 

ぼくにはおばあちゃんのしていることは坐禅のように見えたけど、そういえば仏教だって坐禅や瞑想だってインドから中国経由で日本に入って来たものだ。

それがヨガなのか坐禅なのか、そんなジャンル分けはきっと意味のないことなのだろう。こんなこと書くと識者には怒られるのかもしれないが、表に現われる名前や形が違うだけで、根本的にはおんなじようなものなんだろう。

あとはやるかやらないか。

「ナマステー、チャイはいってる?」

 

友人プラカーシュのまだ眠そうなダミ声で、この静かなおばあちゃんとのひとときは終わりを告げ、ザッツ・インディア!な騒々しい一日がまた始まる。

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石川拓也 写真家 2016年8月より高知県土佐町に在住。土佐町のウェブサイト「とさちょうものがたり」編集長。https://tosacho.com/