8mmカメラがもたらす破壊と創造
8mmカメラにハマっている。
40年ほど前に作られたカメラを手に入れて、初めてフィルムを回したときは、こちらの思いのままにならない、そのわがままさ加減に驚いた。
なにせ古いものなので、フィルムを数本分撮ってみるまではどんな絵になるのかイメージできない。
まずホントに絵が撮れるのか、というところから始まって、露出の正確さや、逆光に弱いとか、暗部に弱いとか、いろいろな状況で撮ってみて、ちょっとずつ感覚として把握していく。
これはきっと写真のカメラでも同じことだろうが、8mmカメラの場合は、その把握していく過程で壊れてしまうのだ。
エルモというカメラをインドに持って行ったときも、3分ばかりのフィルム一本撮ったところで、ふてくされて動かなくなってしまった。
暑い車内にしばらく放っておいたから怒ってしまったのか、いくら話しかけてもうんともすんとも言ってくれない。
写真のカメラ、たとえばライカやコンタックスは同じ状況でも機嫌を損ねないので、エルモが気難しい、繊細なカメラだったのだろう。
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基本的に8mmカメラは修理できない。
もう作っている会社が存在しない場合が多いし、がんばって治そうとするとものすごい金額になったりする。
なので、また中古の安いものを手に入れるわけだが、これで再び何本か撮影してカメラの性格を把握し直さないとならない。
そしてその把握する過程でまた動かなくなる。
そういう不毛な繰り返しをすでに三度繰り返している。
なんでこんな面倒くさいものに手を出したのかと自分でも不思議だが、思いのままにならないというのがちょっと面白かったりする。
こんな感じで撮れてると思うんだけど、というイメージをガタのきた8mmカメラは見事に裏切ってくれる。
こんなはずじゃなかったのに、というマイナスの場合も多々あるのだが、たまにこちらのちっぽけな意図を圧倒するような、気持ちのよい裏切りを披露してくれることもあって、そのときの感覚は撮ってすぐ確認できるデジタルではなかなか味わえないものだ。
昔は写真のカメラも壊れやすくて、フィルムも品質が安定していない時代があったらしい。
そんな時代にスペインの闘牛を撮り続けていたある写真家の話を聞いたことがある。
その男は10数年熱心に写真を撮り続けた後、ある日いきなり写真そのものを辞めてしまったのだが、なぜ辞めたのかと理由を訊ねた知人に対してこう言ったという。
「カメラもフィルムも進歩して、シャッターを押せば写真が撮れる時代になったから」
自分の意図通りに撮れるかどうかといった話以前の、フィルムの質が安定しないので画が撮れてるかどうかすら心許ない。写真がそんなメディアだったからこそ、その男は写真を撮り続けていたのだという。
8mmを触りだしてから、この男の話をやたらと思い出す。