2月
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シリアとイスラーム国のことを考えることは日本とオウムを考えることだ

posted on 2月 3rd 2015 in 毒にも薬にもならない with 0 Comments

Disparition-by-Bouchra-Almutawakel

撮影:イエメンの写真家ブシュラ・アルムタワキ

 

イスラーム国により殺害されたジャーナリストの後藤健二さんのことを考えている。

後藤さんの死に関しては本当に残念というひと言に尽きる。

ネットで流れてくる情報を垣間見ると、そこには心ないというか情けないというか、とんでも発言も多々あって、暗澹たる気分にさせられる。

そんなこと言うなよ、と悲しい気分に落ち込みながら、そこには昨今問題になっているヘイトスピーチと結びついた短絡的な思考回路が大いに関係しているようで気持ちが悪い。

この気持ち悪さは過去に経験した覚えがある、とふと思う。

911同時多発テロ直後のアメリカ。

僕はその現場であるニューヨークに住んでいたのだが、アメリカの地方都市で、ムスリムを対象にした集団暴行、いわゆるリンチが頻発した。

極端に多国籍な街として機能しているニューヨークでこそなかったものの、「自由の国」として世界各国を「指導」しようというような国で、このような理解と共感が欠如した超短絡的な事件が、ひとつやふたつではない規模で起こるということが、アメリカ人の本質というか、もっと言えば人間の残酷な本質を覗き見してしまったような気持ち悪さを感じさせてしかたなかった。

こういったことはもうアメリカをはじめどの国のメディアでも報じられることは皆無なはずだが、僕にとっては911の事件自体と同じぐらいの比重で今でも胸の中にしこりとして残っている。

当たり前だが、911を起こしたアル=カイーダとイスラム教は全く別物だ。

そしてイスラーム国とイスラム教もまた別物。

この件に関しては、友人から流れてきたリンクがとても納得のいく説明をしていた。

 

「イスラーム国とイスラム教の関係は日本におけるオウム真理教と日本仏教の関係と同形である。」

ISISの存在が突きつけるアラブ諸国の深刻な矛盾 | 橘玲 公式サイト
当時ほぼ全ての日本仏教がオウム真理教を認めなかったわけだが、原理主義という点で、つまり大元の教義に忠実であるという点では、日本仏教はオウム真理教に勝てなかったのだ。

スナックで酒飲んで妻も娶って、なんてことしてる日本の坊さんはそりゃ仏教の大原理からしてみれば逸脱も甚だしいわけで、しかも周りもみんなそんな環境なもんだから原理原則からとんでもない程度で破戒しているわりには、破戒してるという後ろめたさや自責もない。

ただ少しは日本の坊さん自身も自覚はあるんだろう。だからオウムのようなハードコア仏教を前にして有効な言葉を発せられなかったんじゃないか、とこれはほぼ先のリンクの受け売りだが、僕も全く同感である。

そしてこれがイスラーム国とイスラム教の現在の関係でもある、と。

宗教というものの性質上、よりハードコア(原理主義)であり、よりファナティック(狂信的)である方が信仰の強さという面では優れているように見える。

例えば日本の宗教関係者が集まって、日本の宗教はお互いに対して寛容なんです、といった発言をしている場面にたまに遭遇するが、確かにそれは事実であると考える。

ただそれは当事者たちが胸を張って言うように、日本的に変質した宗教の長所でもあると同時に、日本では宗教が宗教としての力を失ってしまったことの証明でもあると思うのだ。

自分たち身内以外の世の中すべては敵であり、私たちは迫害されている、そう思っている宗教の方が強い(強いというのは過激という意味での強さであって、根源的な強さのことを言ってはいない)と僕には思える。

 

 

 

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石川拓也 写真家 2016年8月より高知県土佐町に在住。土佐町のウェブサイト「とさちょうものがたり」編集長。https://tosacho.com/

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