3月
04

イスラーム国のこと

posted on 3月 4th 2015 in 毒にも薬にもならない with 0 Comments

Disparition-by-Bouchra-Almutawakel

原理主義というのはおそらくどんな宗教にも存在するのだろう。

教典や聖典、成立当時の教えに対して盲目的と言えるほど忠実に生きるべき、それこそが宗教としての正解だと主張して譲らない原理主義は、現代の日本人の感覚からすると最も理解が難しい存在かもしれない。

そういった考え方はイスラム教に限らず、キリスト教にも仏教にも、おそらくヒンドゥ教にも存在する。

どんな宗教にも、長い時代を経たものには多くの分派や宗派が産まれて、考え方や教義も変化するのだろうから、「変化しないこと」「余計な解釈をしないこと」を信条にする派が存在しても不思議ではない。

原理主義が原理主義で生きていける世の中ならそれでいい。

ただその宗教の成立時点から世の中はだいぶ変わってしまった。2000年前、1500年前なんて時代から見れば信じられないくらい世界は狭くなってるし、いろいろな地域の多種多様な考え方や習俗が存在するのも僕たちは知っている。

イスラムの人々だって、外の世界、つまり欧米のキリスト教をベースにした社会や、日本のようなほとんど宗教というものを顧みることのない社会があることも知っているだろう。

そんな中での原理主義は、やはりカルトだと僕も思う。

原理主義というものを押し通そうとすればするほど、現実は軋んで歪み、弱い部分に負荷がかかりすぎて悲鳴を上げる。

いわゆる「ふつうの」イスラム教徒は、きっとそういった現実と宗教の間で、迷いながら悩みながら生きているはずだ。

もちろん現実も大事だし、親や先祖から受け継いできた宗教も大切だ。

その間で右往左往しながら生きているのが現代のイスラム教徒なんだろう。それは僕らが仕事や恋愛や日常や、とにかくそういったことの間で右往左往しながら生きているのと全く変わりはない。

そんなことを、上に掲げた写真に考えさせられた。

写真や映像というものはこういったことを伝えるためにあると切実に思う。

世界を脅迫するために映像を利用するなんて間違っている。

 

 

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石川拓也 写真家 2016年8月より高知県土佐町に在住。土佐町のウェブサイト「とさちょうものがたり」編集長。https://tosacho.com/

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