VASTU PUJAN 2
第2弾
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本文を読む第2弾
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インド人の友人、バーラトの新居の落成儀式(VASTU PUJAN)の一幕です。
儀式自体は一週間ぶっつづけで行われるのですが、これは3日目の祈りと踊りの日でした。
縁者眷属の女性が祭壇の前に集まり、祈りの歌を捧げます。
ハードディスクの中で久しぶりに見つけて、どんよりした梅雨空に重くなった心が完全なるV字回復です。
恐るべしインディア。
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本文を読む何度も訪れているにも関わらず、いつでもなにかしらボッタクリ事件に遭遇します。
今回はムンバイの国際空港から国内線空港への移動でやられました。まさにこの写真の端に写ってるドライバーです。
後で善人に確認したところ、通常の7倍以上払っていました。なおかつ空港間を結ぶシャトルバスを使えば無料だった、という事実に奥歯を強く噛み締めました。
事件はむこうからやってくる、というのがインドです。
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インドの国内便、スパイスジェット。
以前インディアンエアーラインのストライキでひどい目に遭ってから、国内の移動はスパイスジェットが多いです。
LCCだけあって小さなペットボトルの水しか出ませんが、300ルピー(500円)払うとカレーが出てきます。
ムンバイ〜アーメダバード間(540km)往復で、請求が¥5,480。
別にスパイスジェットの回しものではありませんが、このロゴを見るとなんか嬉しくなってしまいます。
インドに来たな、と実感する瞬間です。
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本文を読む友人キレンの子供たち、シュリとお兄ちゃんのオム。
朝イチ、寝起きでこの表情。
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先月またインドに行ってきました。
インド人の友人が住むカロールという村から、さらに田舎のサルディという村へ。
写真はその村役場のおじさん。
ちなみに村長をしているのが、僕の友人の親戚なのだそうです。
その村長と一緒に村役場に行き、しばらくいるだけで村人が次々に相談を持ち込み、聖徳太子並みに大変そうです。
どういう人生を送ったら、こういう眼差しになるのだろうと思いながら。
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本文を読む最近はヒマさえあれば暗室に籠るような生活を送っている。
インドから持ち帰ったネガを一枚一枚プリントしているのだが、これがいつまで経っても終わらない。
まだ何をどう組み立てるのか、今後どういった写真が撮れるのか、茫漠とした輪郭が見えてきたような段階なので、敢えて絞り込まずに少しでも気になったカットをひとつひとつ焼いているからだ。
霧の中を歩くような終わりのない作業なのだが、これが実はかなり楽しい。
当たり前だが、撮影中は時間が流れている。
撮影中でなくとも、人間は誰もが等しく流れる時間の中でその生活を送っている。
愛すべき人間に出会い、愛すべき瞬間を送ってもそれは時間とともに過ぎ去り変化し、自分の中の奥底に沈殿していく。そこに写真が無かったら。
写真はその、変化し沈殿していくはずの、愛すべき瞬間を、冷凍保存のように凝固して、再び僕に経験させてくれる。
東京の自宅の暗室に籠りながら、僕はカロールをもう一度経験している。
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本文を読む僕の家の近所には、寅さんが産湯を使った帝釈天がある。
初詣にはよほどの事情がない限りここに行くことにしているのだが、インドに何度も行っているうちに、帝釈天は元々インドの神様だったということを知った。
インドラという、初期ヒンズー教ではそれはそれは偉い神様なのだそうだ。
雷の神様でもある。
他にもそんなパターンがあるのかも、なんて調べてみると芋づる式にぞろぞろ出てくる。
だいたい○○天という名前がついている神の発祥はインドと考えても良いぐらいだ。
ラクシュミーという手から金貨を出しているありがたい神様は日本に渡って吉祥天になった。
琵琶のような楽器を弾いているサラスヴァティーは弁財天に、スカンダというシヴァの息子は韋駄天になって日本のあちこちに祀られている。
シヴァだって大黒天に姿を変えて七福神のひとりになった。シヴァの別名であるマハーカーラ(マハー=大きい、カーラ=黒)からそうなったのだ。
* * *
お寺でちょっとお参りするとか、お正月に家族そろって初詣なんていうときに、日本人は知ってか知らずか日本化したヒンズーの神様を拝んでいることになる。
日本の歴史の中で仏教が日本人の生活様式や精神性に大きな影響を与えてきて、そしてその仏教はヒンズー教の前身であるバラモン教を母体にして生まれてきたのだから、実はこれは当然と言えば当然のことなのだ。
今でも七福神巡りをしたり護摩を焚く日本人のことを「隠れヒンズー教徒」と呼ぶ人もいるぐらいだ。
* * *
そういえばもうひとりヤマというヒンズー教の神。
死や時間を司る恐ろしいこの神は、日本に入って閻魔大王になった。ヤマ=閻魔である。
そしてそれが後々ドラゴンボールで悟空の世話を焼くエンマ様になって日本の子供たちを毎週ワクワクさせて、それが世界に輸出されて世界中の子供たちをワクワクさせているのだから、世界は不思議な縁でつながっているのだ。
そもそも西遊記が中国のお坊さんがガンダーラ(古代インド)へ経典を探しに旅に出るという話なのだから、それをベースに描かれたドラゴンボールが、実はインド発祥だったと言ってもそれは決して言い過ぎでもなんでもないのである。
と、一瞬だけ思ったのだが、やっぱりそれは言い過ぎか。
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本文を読む2週間、再びインドに行っていた。
一昨年から、アーメダバードという中都市からさらに車で一時間ほど走った、カロールという名の村を訪れている。
インドに来る時はいつもここに来て、ラオさんという一家の家にお世話になっている。
詳しい話は別の機会にするとして、滞在中のある日、一家のお母さんに「日本の大統領は誰?」と聞かれた。
「日本に大統領はいないけど、首相はカンという人だよ。」と答えると、意外にも「日本の首相はイスラム教徒なの?」という質問が返ってきた。
カンという名前がイスラムに多いカーンという姓だと思ったようだ。
瞬間、僕の想像の翼は飛躍して、諸大臣を引き連れて首相公邸の階段の先頭に立つキラー・カーンをイメージしてしまった。
周囲が燕尾服で固めている中心で、ハゲ頭に赤いモンゴル帽をのせているキラー・カーン。
万が一、実現するようなことがあったら、停滞した日本の政治を劇的に変えることができるのだろうか?
良くも悪くも相当パンチの効いた首相になることは間違いない。
どうでもいいことなんだけど。
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本文を読むインドに一週間ほど行って来た。
詳しい話はまた別の機会に書きたいと思っているが、毎回インドを訪れるたびに持つ感想がある。
インドの挨拶は美しい。
例えば、親戚のおばあちゃんに会う。
年下のひとはお年寄りの前にかがみ、そのサリーの裾、または足を軽く手で触る。
そのままその手で自分の眉間をさわり、胸のあたりをさわる。
この一連の動作を流れるような所作でもって行う。
年長者に対する敬意と愛情をこの動作で表すのだという。
アーメダバードという都市にほど近いカロールという村で、インド人の友人の家にお世話になったのだが、滞在中は僕もよくこの挨拶をした。
軽い感じでこの挨拶をすることもあるし、帰国する前のお別れではもっと正式な、土下座に近い格好でおばあちゃんの足をさわって、おばあちゃんは僕のために旅の無事を祈ってくれた。
インドの人々がこの挨拶をするのを目にするたびに、何千年も以前から変わることなく繰り返されてきたその動作に、シンプルだがとても完成された美しさを感じる。
ラーマヤーナというヒンドゥーの聖典に登場するラーマ王子とシータ姫がまったく同じ動作をしているので、神話の世界からずっと同様の所作が続いて来ているのだろう。
まったくの蛇足、かつどうでもいい話だが、友人の親戚のひとりはカロールという村でトヨタのカローラを乗り回していた。
名前のおかげというわけではないだろうが、とっても気に入っているそうだ。
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