冬の由布岳に登る宣言
いったんは全てを置き去りにして大分県・由布院に来ています。
年末年始はここで温泉に入り冬山に登り過ごそうと思っている。
今年(2015年)1月2日にも登ったのですが、由布岳。
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夢枕獏「神々の山嶺(かみがみのいただき)」が映画化するという。
僕はまったく寝耳に水だったのだが、映画化するぞ撮影するぞというニュースは今年の前半から流れていたようだ。
主演が岡田准一、脇を阿部寛と尾野真千子。
ということは深町を岡田くん、羽生が阿部ちゃんということか。
すごいキャスティング。特に他人に心を開かない羽生の役を阿部寛がやるというのはとても楽しみだ。
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ジョージ・マロリーはどこに | 登山家がチョモランマに残した謎と写真の関係
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再び由布院を訪れています。
ちょうど東京を発つ前日に、ウェブサイトの不具合が竜巻のように沸き起こり、こちらに来てからも対応に追われていました。
復旧には1週間ほどかかり、やっと昨日メドが立った、というかこれでサーバーやGoogleから不具合の連絡が来なければ完了です。
あと数日、「ウェブサイトに不具合が起こっています」という恐ろしいメールが届かないことを祈っています。
この1週間、ほぼ毎日パソコンと格闘する毎日でした。
せっかく由布院に来てるのに、、と思わないこともないですが、仕方ない。唯一1日だけ、冬の由布岳に登ってきました。
登山などめったなことではしない生活を送っていますが、由布岳のみ僕の中ではなぜか例外で、今年だけでも春、秋、冬と3回登りました。
なぜか飽きない。というよりも登るたびに発見がありおもしろい。
古来より由布院に暮らす人々は由布岳を霊山として敬ってきたという話を聞きますが、そんなことも自然と納得してしまうような、美しい佇まいを由布岳はしています。
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強い写真には、どこで出会うかわからない。
当たり前だが、これほどの量の写真に日々晒される生活は、ここ十年ほどの時代を生きた人間以外に前例がないだろう。
横丁の、角を曲がればお店の壁に広告の写真が貼ってあって、といったことは昭和の初期からあったのだろうが、ネットに繋いだ瞬間に、望みもしない多くの写真を見せられる、なんていう経験は、この頃以前の人間は持つ必要がなかったはずである。
ユビサキだけでクリックすれば、今日の晩ご飯やセクシーなお姉さんや新発売のスポーツカーなんかが我も我もとこちらの目に脳に飛び込んで来る。その副作用は一体どういうことになるのか、なんていうことは全く想像もつかないが、なんの縁だか写真というものを生業にしている身としては、おもろい時代になったなあ、と思わずにはいられない。
そんな時代なのに、というよりも、そんな時代だからこそ、目にした瞬間に内臓をわしづかみにされてしまうような写真に出会うことが割合としては少なくなってきている気がするのだが、反対に、意図していない瞬間に、とんでもなく強い写真に出会ってしまい、心の準備もないままに五臓六腑を引きずり出されてしまうような、快とも不快とも言えないような経験をすることがまれにある。
ヒマラヤやチョモランマ関係の調べものをしている最中に、久しぶりにそんな経験をした。
登山家であるジョージ・マロリー(George Mallory)を撮影した写真である。まだチョモランマの頂上に人類が到達していなかった頃、1920年代に活躍したイギリス人で、マロリー自身、21年、22年、24年と3度の挑戦を行った。結果を先に言ってしまうと、その3度とも頂上の踏破は叶わず、人類初の登頂は1953年のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイまで待つことになる。
マロリーは24年に行われた3度目の挑戦で、サポート役のアンドリュー・アーヴィンと共に行方不明になり、帰らぬ人となってしまった。頂上に最も近い第6キャンプから、二人が頂上に向け登って行く様子を見つめていた遠征隊員のひとりであるオデールの目撃証言を最期に、ふたりはこの世からいなくなってしまったのである。
ふたりの生存に関しては、キャンプに戻って来ないことからも絶望的と思われたが、そこでひとつの謎が残された。
ふたりが行方不明になったのは、登頂を果たした後なのか?それとも頂きに達する前なのか?
果たして、ふたりは頂上を踏んだのか?
今となっては確認をとる術もなく、謎は謎としてヒマラヤの氷の中に永遠に凍結されることになる。「頂上を踏んだら妻と娘の写真をそこへ置いて来る」と言い残していたその写真も、後の登頂者に発見されることはなかった。
そしてそれから75年という歳月が流れた1999年、アメリカ隊によって頂上付近でうつぶせになったマロリーの遺体が発見される。遺体や遺品の状況等が調べられたあと、マロリーは隊員たちの手によって葬儀、埋葬されるのだが、発見時の大きな記録として撮影された写真が、今回僕が偶然目にしたものだ。
8000m級の山の頂上付近という特異な気候条件の下、75年が経ちながらも遺体は白骨化していなかった。うつぶせになって瓦礫に頭部を埋めている遺体は、破れた服から背中をむき出しにして晒している。何故だか色素が抜け落ちてその肉は真っ白になっている。垣間見える服装や装備は現代からは信じられない素朴なもので、鋲を埋め込んだ靴底なんかも、山には素人の僕でさえ多分に心細くなるほどの古めかしさだ。
予期しない形でこの写真に出会ってしまった僕は、前人未到の頂きに挑戦し、命を落としてしまったマロリーの無念さや勇気や強さや、ベースキャンプで待ち続けたオデールたちの歯噛みするような悔しさや、戻って来ると信じて疑わなかったマロリーの妻や子供たちの言いようもない哀しさや、そういう言葉にできもしないたくさんの人々の想いをふいに眼前に提出されたような気になって、ぐっと息を吐いたまま、しばらくの間、目を離せなくなってしまった。
写真家が写真家として撮った写真を論ずる以前の、根本的な写真の強さがそこにあったように感じたのだ。
写真とは主要な芸術の中でただ一つ、専門的訓練や長年の経験をもつ者が、訓練も経験もない者に対して絶対的な優位に立つことのない芸術である。
そんなことをある思想家が書いていたのを読んだことがあるのだが、マロリーの写真を撮ったのが経験を積んだ写真家か否かはさておいて、現実に対する視点や解釈を根こそぎ圧倒してしまう、そんな巨大な事実の前では、訓練や経験なんかは毛ほどの意味もなく、だからこそこのような事実の前に立ち向かうためには写真という手段は飛び抜けて強力なものなのだ。言葉を換えれば、写真というものは、撮影者の訓練や経験や技術といった、本来は媒介になるための重要な要素をことごとくいとも簡単に飛び越えて、目の前の現実と直結してしまう。写真はときにウソをつく、といった問題はまた別にあるにしても、目の前に広がる現実は、それが圧倒的なものであれ些末なものであれ、カメラの前では腹を見せた子犬のように素直で素朴なものになってしまう。
行方不明になったとき、マロリーは一台のカメラを持っていた。当時としては最新鋭の、コダック社製のブローニーフィルム用のポケットカメラだ。そのカメラと、もしかしたら撮影済みのフィルムが見つかれば、永遠と思われていた謎が解けるのではないか、つまり、マロリーとアーヴィンが頂上で写真を撮っていれば、登頂の確たる証拠になるだろうと思われていたのだが、幸か不幸かマロリーの遺品の中にはカメラもフィルムも含まれてはいなかった。
「カメラが発明されて以来、写真はいつも死と連れ立っていた。」
さきの思想家はそういえばこんな言葉も残していた。
ヴェストポケット コダック(Vest Pocket Kodak)という名のそのカメラは、未だに発見されていないアーヴィンとともに、今もヒマラヤの氷の中に眠っているのだろうか。
参考文献
posted with amazlet at 15.11.17
ヨッヘン …
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