Posts Tagged with: グジャラート
この日がある意味本当の「結婚式」。これまでのものは全てここに来るための前哨戦でした。クルッティの自宅から1kmほど離れたある邸宅で新郎のための儀式が行われます。
バラモンの細かい指導により新郎ミラージの儀式が進みます。この後クルッティの待つ場所へ、花嫁を迎えに行くのです。
その頃、自宅で待つクルッティ。クルッティの自宅の隣に作られた、いわゆる「披露宴会場」。左手奥に光るのが自宅です。8000人が近隣からやってきました。8000人と言えば “ニヤムギリの丘 | Niyamgiri Hills” で書いたドングリア・コンド族の人口と変わらないんですが。。パレードとともに会場入りする新郎ミラージ。ひとりだけ頭が高いのは馬に乗っているから。担がれて会場に入ります。まずは披露宴(レセプション)です。ゴンドラに乗ってお披露目!クルッティ、ミラージ、それから親族がステージ上にあがります。来賓との記念撮影が延々と続くのです。
そして自宅の庭に拵えた結婚式場での「誓いの儀式」に移るのですが、書ききれないので次回に続きます。
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どんどん派手になって行く結婚式。この日はロックフェスばりにステージが組まれ、歌と踊りに明け暮れる夜です。まずはムンバイから呼ばれたダンサーたちのショー。そして弟ダムルーとその友達のダンスパフォーマンス。新郎の妹とその友達のパフォーマンスもあります。両親に向けたビデオメッセージなんかも。新郎新婦の入場。新郎はミラージ。歌曲一切を取り仕切るのはこの人、ムンバイから来たロドニー。
“ボリウッド映画を地でいく国 | 歌と踊りのインド” で書いた売れっ子結婚式シンガーとは彼のこと。そして始まる歌と踊り。左:新郎父 右:新婦父後ろに変な人写っていますが、、、。
ロドニーに「あの歌やって!」と途切れることなくリクエストし続け、踊り続け大合唱し続けの一夜でした。
グジャラート州はドライ・カントリーと呼ばれインド唯一の禁酒州。おおっぴらにお酒売っている店は一軒もありません。この夜も誰ひとりとしてお酒を飲んでいる人はいないはずですが、朝方までこの狂乱は続きました。
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クルッティの結婚式2日目。この日は女性陣がメンディ(ヘンナ)の装飾を施す日。会場は自宅でした。
昼間にはインド占星術の催しなどをがあり、夜には本格的にメンディ大会が始まります。
仕上がりの方はこちら” ヘンナで飾られたインドの花嫁 | グジャラート州カロール“から。
メンディを受けながら、当然のように歌と踊りが始まります。上はお母さんのプラティマ。下はクルッティと弟のダムルー。
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12月に出席したクルッティの結婚式の写真です。7日間続く結婚式全体のこれはそのうちの1日、指輪の交換式。
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インドに到着してから5日、毎度のことながら整理できないほど毎日いろいろなことが起こっています。
しばらく長い文章は書けなそうな気配なので、写真を数枚アップします。
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梅雨の厚い雲が一時切れて陽光が差し込む朝は、ベランダに出て貴重なものを味わうように光を浴びる。
こういうときに狭いながらもベランダがあるというのはありがたいもので、なければないで外を歩いてきたりすれば良いだけの話だが、朝の起き抜けに久しぶりに見た太陽を感じながらお茶を片手にぼんやりとする瞬間は、それに続く一日をちょっとだけ穏やかに彩ってくれるような気がする。
そう書いて思い出したが、インドのベランダというかバルコニーの充実度はとても心地よいものだった。インド全域のことなのかどうかはわからないが、ぼくがよく訪れるアーメダバードという街のアパートやマンションには、居住面積に比してかなり大きなスペースをバルコニーに割いているところが多かった。
一週間ほど泊めてもらった家庭では、2LDKの間取りに二部屋分ぐらいのバルコニーが付いていた。高級マンションではなく、あくまで庶民的なアパートの話だ。
インド人は朝寝坊がふつうなので、目覚めるのはたいていぼくが一番早い。朝起きるとそのままバルコニーに直行し、水を飲みながら眼下の通りを牛やサルが通り過ぎるのをぼ〜っと眺めていた。2Dで移動する牛と違いサルは縦横無尽に3D移動するので、キッという短い鳴き声に振り向くとぼくのすぐ後ろにサルがちょこんと座っていたこともあった。
このインド式バルコニーにはたいてい「ジュラ(JHULA)」と呼ばれるこれまたインド式のブランコが付いている。いや正確には「付いている」どころかバルコニーの中央に、堂々と鎮座していたりする。繰り返しになるが、あくまで庶民的なアパートでの話だ。
ジュラはたいてい天井から太い鉄鎖でぶらさがっていて、座面は3人ぐらいが余裕で坐れるような長いベンチであったり、それが高級マンションだと巨大なソファがそのままつり下げられてゆらゆら揺れていたりした。
一番に起きたぼくがサルや牛を眺めながらゆっくり過ごしていると、次に起きてくるのはだいたいおばあちゃんで、「飲みなさい」といって熱々の濃厚なチャイを差し出してくれた。
これが例外なくうまい。
世界中のどこにいても、身体が求めている食物を求めているタイミングで口にすることができる瞬間は、なにか「うまい」という味覚を越えた、身体が喜ぶような快感を感じることがあるのだけれど、おばあちゃんのいれてくれた毎朝のチャイには例外なくそれを感じた。
インドの気候でインドで作ったチャイが、インドにいるぼくの身体に喜びをもたらすというのは考えてみれば道理な話で、こういう感覚を理屈っぽくしていくともしかしたらマクロビとかに繋がってくのかもしれない。あ、マクロビのこと全然知らないんだけども。
「ジュラ」に話を戻すと、おばあちゃんはぼくがチャイを飲むのを見届けると、一度キッチンに戻り、自分のチャイを持って来てジュラに坐る。ゆらゆらかすかに揺れているベンチの端に坐り、真ん中あたりにチャイのコップを置く。
おばあちゃんが話すグジャラート語をぼくは理解できなくて、ぼくが話す英語をおばあちゃんは理解できない。だから、とても静かで、でもあたたかい感覚だけがバルコニーに流れる。
たとえばぼくがサルに注意を奪われて、しばらく目を離した間なんかに、おばあちゃんは目を閉じあぐらをかき、ちょうど坐禅をしているような体勢でジュラにゆっくり微かに揺られているときがある。
その感覚をぼくは言葉で説明できないけれど、いつもそういうおばあちゃんを目にするたびに、「とても良い」と思う。特別神々しいわけでもないし、光り輝いてるわけでもなくいつものおばあちゃんなのだけれど、なにか「良いな〜」と思わせてくれるものがある。
10分、20分と瞑想を続けた後、目を開けたおばあちゃんがいちど話してくれた。
「これは、ヨガだよ」
あんたも毎日やりなさい、心と身体に良いから、とおばあちゃんは言ったのだが、そのときぼくにとっての拙いヨガのイメージは、「イヌのポーズ」とか「ワシのポーズ」(そんなのあったよね?)などのもっと動きのあるものだったので、おばあちゃんの言葉には意外な響きがあった。
ヨガはこんなポーズとかするんじゃないの?いくつか実際にポーズを取りながら訊ねたぼくに、少し嬉しそうな笑顔でおばあちゃんは言った。
「それもヨガだけど、ヨガは呼吸。呼吸がヨガ。あんたもおぼえて日本帰ってもやりなさい。」
ぼくにはおばあちゃんのしていることは坐禅のように見えたけど、そういえば仏教だって坐禅や瞑想だってインドから中国経由で日本に入って来たものだ。
それがヨガなのか坐禅なのか、そんなジャンル分けはきっと意味のないことなのだろう。こんなこと書くと識者には怒られるのかもしれないが、表に現われる名前や形が違うだけで、根本的にはおんなじようなものなんだろう。
あとはやるかやらないか。
「ナマステー、チャイはいってる?」
友人プラカーシュのまだ眠そうなダミ声で、この静かなおばあちゃんとのひとときは終わりを告げ、ザッツ・インディア!な騒々しい一日がまた始まる。
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(3のつづき)
僕は自分がした非を悟り、改めて単語をツギハギしたギリシャ語で、ギリシャ語、わかりません、英語で、聞いてもいいですか?とひと言謝ってから訊いてみた。そうだ、それでいいのだ、と何度か大きく頷いて、じいさんは道を丁寧に教えてくれた。
怒られはしたものの、僕はこのじいさんにとても爽やかなものを感じた。ギリシャにいてギリシャ人に話しかければ、ギリシャ語を使うのは考えれば当たり前だ。ギリシャ語ができなければ最初のひと言、英語で訊いてもいい?ぐらいはギリシャ語で言うべきだっただろう。それを無視して当然のように英語で話しかけたことはじいさんの誇りを傷つけた。誇りを傷つけられたじいさんは、なってねえじゃねえかこのやろう、と怒った。それだけの話だ。
見知らぬ外国人に突然英語で話しかけられて、やっぱり英語は世界共通語だからね仕方ないねごめんね英語あんまり上手じゃなくって、なんてギリシャのじいさんは決して言わない。ギリシャにいるんならギリシャ語しゃべれギリシャ人なめんじゃねえぞこのすっとこどっこいが!とこう言う。
すっとこどっこいと言ったかどうかは定かでないが、そういうじいさんの矜持が、僕にはとても好ましいものに思えたのだ。
じいさんはきっとギリシャのことが大好きなんだろうと思いながら自転車を走らせた。
マジョリティでいることは、マイノリティに対して鈍感になることだ。マイノリティはマジョリティが考える以上に敏感で繊細なものだ。それはいくつかの国でマイノリティになった経験から断言できる。マジョリティの鈍感さに圧されてマイノリティが小さくなってしまうこともよくあることだ。
だがマイノリティであることは単に「数が少ない方」にいるだけのことであって、悪いことではないしましてや罪なんかでもない。マジョリティを強いてくる鈍感連中には、マイノリティなめんじゃねえぞこのやろう、と堂々と言ってやったらいい。ギリシャのじいさんが僕に対して言ったように。
もうひとつ補足すると、アテネの町中でパトラへの道順を訊いたのは、言ってみれば新宿の道ばたで名古屋までの行き方を尋ねるようなものだった。正確な道順を簡潔に教えてくれたじいさんはやはりただ者ではなかったのだろう、とイタリアへのフェリーに乗ってから考えた。
(おわり)
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(2のつづき)
話を戻すと、世界には言語的マジョリティとマイノリティがある。マジョリティであればあるほど他国異文化の人間が自国の言葉を理解することに意外性はなく、むしろ当然のこととして受け止める。マイノリティ度が強ければ、外国人が話す自分の母語を驚きと喜びで迎え入れる。
どっちが楽しい人生なのだろう?
比較するナンセンスを承知で、たまにそう思うことがある。英語で苦労した10代後半から20代前半は、英語圏に育っていればこんな苦労はしなくてすんだのに、とときどき考えたことは確かだ。だが今になってみるとなんとなく言語マジョリティというのはちょっと退屈なのかもしれない、と思う。もし英語圏の人間として生まれていたらと想像してみるに、世界中どこに行っても自分の言葉を理解する人間がいて、自分の言葉で書かれた新聞や本も豊富に手に入る。テレビも映画も音楽も英語のものがある。どこの誰が英語を話していても驚かないし従って特に嬉しくもない。
これって果たして楽しいことなのだろうか?
また話は飛ぶが、ギリシャでのことだ。アテネに着いたとき、思いつきで自転車を買った。計画も経験も自転車の知識さえもない単純な思いつきで、アテネからイタリアやフランスを自転車で旅したら楽しそうだ、と考えただけだった。地図を見ると、西のパトラという港町からイタリアのブリンディシまでフェリーが出ている。まずはパトラまで行こう。買ったばかりの自転車に荷物を括りつけて、いざ出発という段になって道に迷った。側にいたヒマそうにしているじいさんに、何も考えず英語で道を尋ねると、彼は顔を真っ赤にして烈火の如く怒りだした。僕はギリシャ語は全くわからないが彼が言わんとしていることは伝わってきた。
お前はギリシャにいながらギリシャ人に向かって英語で話しかけるのか!?
そう言ってじいさんは激怒していたのだ。
(4につづく)
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(1のつづき)
グジャラート人である彼らが味わうその類いの喜びと驚きは、日本人である僕にもよくわかる気がする。イギリス人は理解できないかもしれない。母語というのは人間のアイデンティティの根幹に密着しているものだ。外国人が自分の母語を喋ることは自国に対しての好意的な興味を意味する。非ネイティブがひとつの言語を習得するには多大な労力と時間が必要なので、単純な興味以上のことかもしれない。その外国人は自分のアイデンティティの根幹を認め、文化に対して敬意を持っていることを間接的に表現していることになる。
逆に母語を否定されることは自国と、その文化と、ひいては自分を否定されることと同じことなのだ。世界のいたるところで、しばしば歴史上で、マジョリティや侵略者はこのことを悪用した。戦争や紛争の相手国のアイデンティティを奪って自国化する方法として、母語の使用禁止は常套手段のようだ。世界史に詳しいわけではない僕でも、日韓併合で日本が韓国にしたことや、ドイツがチェコに強制したドイツ語化、アメリカがネイティブ・インディアンの言語を使用禁止にしたことなどが思いつく。
「自由の国」アメリカの東海岸を車で旅行中に、チェロキー・インディアンのおばさんに出会ったことがある。ノースカロライナのチェロキーでのことだ。仲良くなって、何も知らなかった僕に彼女はチェロキー・インディアンの歴史を丁寧に教えてくれた。驚くべきことに、アメリカではクリントンが大統領に就任するまで、つまり歴史の物差しでは比較的最近まで、チェロキー語を禁止されていた。長年、学校で習うことはおろか、公の場で使うことも禁じられ、徐々にチェロキー語を話せる人間が減っていったという。僕が会った当時は、確か1998年だったと思うが、チェロキー語を母語として使いこなせる人間は、酋長である彼女の父親ただひとりになっていた。93歳のおじいちゃんが亡くなってしまったら言葉も失われてしまうので、大急ぎで子供たちに教えてもらっているの、と彼女は言っていた。100年前の話ではなく、十数年前のことだ。
クリントンは過去のインディアン政策の誤りを認めて、償いという意味を含め、チェロキー・インディアンにカジノの経営権を認めた。そのおかげでチェロキーは少しずつ豊かになってきているけど、全てはまだまだこれからね、と言って去って行ったおばさんの車はピッカピカのグランド・チェロキーだった。。。
これネタではないです。本当の話です。
(3につづく)
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