21
その間、公安の他の警官たちは面倒くさそうにバスの周りに群がり、車体の下部を覗き込んだりタイヤをトントンと叩いたりしていた。そんなところに何かが隠されているとでも言うのだろうか?
「ダライ・ラマの肖像画がチベットでは禁制品になっているのだ」
上海で出会ったイギリスの若者が言っていたことを憶い出した。チベット人の信仰の中心にいるダライ・ラマ。中国政府はありとあらゆる種類のダライ・ラマの肖像を一方的に禁止した。チベットに持ち込むことも、チベット人が持ち歩くことも、家や店に飾ることも。当局に見つかれば即没収。場合によっては逮捕拘束されるという。
それが理由でチベットではダライ・ラマの写真が非常に貴重なものになっている。チベット人は危険を冒しながらもそれらを隠し持つ。身の内に隠しながらチベット内を移動し、それらを必要としている辺境の民に配り歩く者もいる。そんな話を聞いたことがあった。
警官たちがそういったものを念頭に置いて検問していたのかどうかはわからない。ただ僕は、そういった日本の常識では計り知れない遠い場所までいつのまにか無自覚のまま、すでに来てしまっていたのだ。そして今さらながら、この瞬間になってやっと、ここがもうチベットで、ダライ・ラマの写真一枚で逮捕されかねない土地であることを自覚した始末だった。
周りの乗客も、運転手も公安警官も、誰ひとり僕がこうして人知れず不安におののいていることを見抜いてはいないだろう。くたびれてだらけきっている旅の中国人に見えているはずだ。
もう少しだけ、このまま前に行かせてほしい。
そしらぬ素振りをしながら心の内で強く念じていると、とうとう外では長い話が終わったようだ。公安が運転手に書類の束を投げ返すのが見えた。
運転手はそれを受け取ると、一言二言公安になにかをささやいた後、運転席に戻ってきた。
よし出発だ。
安堵したのもつかの間、僕の目に映ったのはドアから静かに入ってくる公安警官の姿だった。
(つづく)
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20
薄暮の中、バスのヘッドライトが赤白に塗られたゲートを照らしていた。
これまでの検問ではただ小さな小屋とテーブルがあるだけだったので、ゲートの威圧感は僕をほとんど恐慌と言っていいほどの不安に巻き込んだ。
バスが停車した時にはゲートの周囲に誰も見当たらななかったのだが、1分も経たないうちにどこからか制服の集団があらわれた。およそ10人。
エンジンを止め、バスの運転手が緩慢な動作で外に出て行った。
集団の内からひとりの公安が進み出て、運転手となにごとかを話しはじめた。外の暗さもあって、制服の集団は全員が同じような顔に見えた。
しばらく話し込んだ後、運転手がバスに戻ってきて助手席の下から書類の束を取り出し、また公安の方へ戻っていった。日本で言えば車検証や営業許可証や、そんな類いの書類なのだろうか。
中国人はうるさいほど声が大きいはずなのに、このときはヒソヒソと声をひそめて話しているようだ。
まさか「外国人がひとり乗っている」なんて話していないよな。無関心を装いながら、内心では鼓動が早くなってきているのを感じた。早く、早く出発しようぜ、と祈るような気持ちで座席に沈み込んだ。
話し合いが長い。
(つづく)
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19
3日目の夜が深まるにつれ、時間の感覚が薄れていった。
出発前の東京で安物のタイメックスを買い左腕に着けていたのだが、巻き上げ式のこの腕時計をいつからか巻き忘れていた。針は4時過ぎを指したままピクリとも動かなくなっていて、この日の夕方まで動いていたことは知れるのだが、気がついた時にはもう正確な時間がわからなくなっていた。
バスの内部に時計はなかったし、もちろん誰かに尋ねるわけにもいかなかった。そうして窓の外に完全な夜の闇が降りてきた後は、僕は時間を計る術を完全に失ってしまった。
ウトウトと一瞬だか一時間だかわからないようなあいまいな眠りを繰り返していたので、ぼんやりと疲れ切った頭には、今が夜になったばかりなのか、夜更けなのか、それとももう夜明けが近いのか、そんな大まかな感覚さえ溶けて流れ出してしまったかのように捉えることができなくなっていた。
窓の外は相変わらず小さな光さえ見い出せない漆黒の闇で、まるでこのバスごと宇宙空間に放り出されたような不安が僕を包み込んだ。
喉が渇くと瓶を出しぬるいお茶を飲んだ。
腹はもう減っているのかどうかもよくわからなくなっていたが、ときどき乾パンをポケットから出してかじった。
そしてそんな動作さえ億劫に感じるほど疲れていた。ラサでなくてもいいから、ただただ横になってぐっすり眠りたいと思った。
狭く硬い座席の上で、できるだけ丸くなりながら少しでも眠ろうとした。
不快な振動とエンジン音、それに足下の熱いパイプが、相変わらず眠りに落ちることを邪魔した。イライラして目を開けると、窓の外に白んできた空が見えた。4日目の朝の始まりだった。そしてそのときバスが少しずつスピードを落としはじめた。
なにか嫌な予感がして、座席の上に座り直す。外を見る。いつの間にかバスは集落の中をゆっくり走っていた。
空が白んできたとはいってもまだ夜中だ。外に人は歩いていない。
ただ白い石でできた集落の真ん中を突っ切る細い道を、のろのろとバスは走り、そして大きなゲートで閉じられた検問の前で停車した。
(つづく)
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18
酸素不足と頭痛と睡眠不足と空腹で、もう頭はぼんやりとして用をなさない。
硬い座席にぐったりと沈んで、疲労と睡眠の間を行ったり来たりしているうちに3日目の夕陽が沈んで行った。バスはいまだに街に入る気配もない。
もう本当にうんざりだ。
どことも知れない今すぐここで、このバスを降りてしまいたい衝動に駆られながら、ウトウトと眠くなる。だからといってぐっすりと眠れるわけでもない。ちょっとしたバスの揺れで意識はこちら側に戻ってきてしまう。
ラサ到着まで残りどのくらいの距離なのか、せめてそれだけでも知ることができたなら。
手も足も出ないこの状況に、ただ丸くなって耐えなければならないのはあと何時間なのか、せめてそれだけでも誰かに質問できたなら。
この暗闇をあてどなく歩き続けているような心細さを、少しは小さくできたはずなのに。
もちろん僕にはそのどちらもできなかった。そんなことをすればネズミ男のルールを破ることになってしまう。ルールを破ったらラサには到着できないのだ。せっかくここまで我慢したゲームもすべて終了。そのうえゴルムドまでの数十時間を再び耐えなければならなくなるだろう。
どちらにせよ、あらゆる意味で限界が近いことは僕自身よくわかっていた。
(つづく)
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17
頭が痛い。
バスが山を登るほどこめかみの鈍痛がひどくなる。
もうこの旅も3日目だ。
ここがどの辺りなのか見当もつかない。ラサまであとどれくらいなのか、誰にも訊けない。もうすぐ到着するのかもしれない。まだまだ着かないのかもしれない。
あれから検問がさらに2つあった。ひとつは公安が車内をジロジロ眺めるだけで終わったが、もうひとつは2人の乗客がその場に降ろされた。
僕にはその理由がまったくわからなかった。そのことを誰かに訊ねることもできなかった。そしてその情報の無さが僕の不安を徐々に大きいものにしていた。こめかみの鈍痛は単に高度のせいだけでもなさそうだった。
バスはひたすら山を登り続けている。さっきから下り坂をまったく見ない。空気が薄い。少し息苦しい。
なんとかなるさ、といった根拠のない楽観主義はいつしか僕の中から消え去っていた。次は僕の番かもしれない。次の検問で目を付けられてバスを降ろされるのは僕かもしれない。いや、僕ひとり降ろされるならまだましだ。許されない外国人がこのバスに潜り込んでいることが原因で、バス全体がゴルムドにとんぼ返りを強要されたとしたら。すでに60時間以上の長旅に、黙然と耐えている他の乗客たちが、そうなったとき果たして僕のことを笑顔で許してくれるのだろうか。そんな想像はいつしか僕の心の中で発芽して、不安という腐臭を放つ花を咲かせてしまったようだった。
置かれた状況を考えれば考えるほど、無事では済まないような気になってくる。答えの出ない無限ループにはまり込む。しかし体が疲れすぎていて、思考が半ば麻痺していたのはむしろ幸いだったかもしれない。
ひとつの考えに集中できないほど麻痺していたおかげで、悲観的な不安の中心に沈み込まずに済んだのだから。
(つづく)
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16
1階にたどり着くとそこにはフロントがある。
安宿とはいえ眠そうなおじさんがひとり、番をしている。
それまで抜き足差し足低姿勢で進んで来たネズミ男が、フロントの前は普通に歩いて通り過ぎた。ここは隠れるとこじゃないの?もうどういうことか、わけがわからない。僕はごくふつうにチェックアウトして部屋の鍵を返却した。
扉を開けて一歩中庭に出ると、そこにはまた姿勢を低くしたネズミ男がいた。ここからまたしてもスパイもどきのようだ。
僕がからかわれているだけなのだろうか?
25メートル先の門までまたスパイもどきの低姿勢で進み、門を開け道路に出るとそこには一台の車が停まっていた。車種はわからない。それほど埃だらけでオンボロな白い乗用車。ネズミ男の後に続きこの車に乗り込んだ。
なんとなく一息ついた雰囲気で、ネズミ男が車を発進させた。
向かうは長距離バスの停留所だ。
5分ほど車を走らせ、バスが3台停車している広場の隅、街路樹の陰の目立たない場所に停車した。車の中でレクチャーが始まる。
「お前は中国人ということにしてあるから、バレたら追い返される。コートは最後まで脱ぐな。帽子も脱ぐな。目立つな。誰とも話すな。車掌には『こいつは口が不自由だから』と言っておく。飯もひとりで食え。誰とも一緒になるな。注文するのも聞かれるな。これを持って行け」
ポケットから中国語の芸能雑誌。
「ずっと読んでいるフリをしろ。いいか日本人だとバレたらその場で降ろされるぞ。ひどいときにはバスごと追い返されるぞ。どんなにラサの近くまで行ってようが、公安はそんなこと平気でやるぞ」
ネズミ男が全身から発していた緊張感にあてられて、僕も少しずつ硬くなる。
ひと通り説明が済んだと見えて、ネズミ男は僕を外へ促した。荷物を持ってバスへ向かう。バスの周りでは車掌らしき男と数人の乗客が出発を待っていた。
ネズミ男が車掌に話しかけ、何度か僕の方を指差しながら相談している。口が不自由なんでよろしく頼む、なんてことを話しているのだろうか。車掌は僕の荷物をバスの屋根に載せた。無表情で僕を凝視するネズミ男を残し、バスに乗り込んだ。座席は8割方埋まっている。後方に席を見つけ腰を下ろす。窓の外にネズミ男の姿はすでになかった。
15分ほどしてバスはエンジンをかけた。さらに15分ほど暖機運転をしてからのろのろと出発した。
こうして僕はこのバスの旅に出た。
(つづく)
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15
やはり気が張っていたのだろうか、翌朝は日が昇る前に目が覚めた。軽く朝食をとり、荷物をバックパックに詰めてからさらにそれをズタ袋に入れる。
人民軍の中古コートを着て人民帽をかぶる。
そのまま鏡の前に立つ。なるほど、中国人に見えないこともない。6時を少し過ぎてドアにノックの音。開けるともう見慣れたネズミ男の顔。
もともと表情に乏しいその顔が、早朝だからなのか能面のような無表情だ。
それにしても宿泊客でもないこの男はどうして、安宿とはいえ、この宿を自由に出入りできるのだろう、とこのときふと不思議に思った。
しかしそんなことを詮索するヒマもなく、小声でネズミ男が話しかけてくる。このときになると不思議とこの男の言わんとすることが、なんとなくだが理解できるようになっている。
「準備はできたか?」といって僕の荷物が計画通りズタ袋に入れられているのを確認する。
「声を出すなよ」シー、と口に人差し指をあて「荷物を持っておれについて来い」と手振りで部屋の外へ。ネズミ男はまず姿勢を低くし、音を出さずに廊下を少し小走りに進む。階段のある角まで行き膝立ちになり、顔だけ階段の方へ出し様子を伺い、誰もいないとわかると後ろの僕に合図を送る。
「よし、来てもよし」
僕もネズミ男に倣い、低い姿勢かつ小走りでネズミ男のすぐ後ろまで移動する。荷物を持っているので僕の場合はドタバタと音がする。それをネズミ男は咎めて「音を立てるな」と少し怒った小声で言う。
ネズミ男はもう一度階段の方へ顔だけ出し、様子を伺ってから「よし!」といった感じで、今度は踊り場まで移動。手すりの陰から顔だけ出して階下に人がいないことを確認、「よし来い」と僕に手招きする。
まるで安物B級のスパイ映画だ。
心の中でそう思ったが、ネズミ男の緊張感に満ちた真剣な表情につられて笑う気にはならない。
3階の部屋から1階に降りるまで、この低姿勢小走りを2人して繰り返したのだった。
(つづく)
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14
その夜、輪郭がなにもかも暗くぼやけたようなゴルムドの街。どこをどう歩いたのか皆目見当もつかないような路地の奥。橙色の裸電球がぼんやりと照らす露天の古着屋に、ネズミ男は僕を連れて行った。
ひとかけらの迷いも見せずに「これを買え」とあいつが選んだものは、あちこちシミの付いてすり切れた中国人民軍のカーキ色のコートだった。300円也の古着を言われた通りに買いそのまま着てみると、その外見とは裏腹に、造りはとても頑丈で分厚いものとわかった。「軍用品だ」と実感したが、コート全体から発するかび臭さには閉口した。
さらに「これも買え」とネズミ男は帽子をひとつ差し出す。額の部分に赤い星のついた緑色の人民帽。ドラゴンボールのウーロンみたいだな、そう思いながら買った帽子をコートのポケットに押し込める。
そしてもう一軒。さらに路地の奥まった場所にある雑貨屋に行き、巨大なズタ袋を買えと言う。
「お前の鞄がダメだ。あの青い鞄をこの袋の中に入れろ」
声を低く落とし、油断無く周りに目を走らせながらネズミ男が言う。
「中国人に偽装しろ」と。
「翌朝6時に迎えに行く」と小声で言ってネズミ男は路地に消えて行った。僕は帰り道に迷い、宿を探し出すまで2時間歩いた。
(つづく)
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13
翌日、小さな街をぐるりと一周し、遅めの朝食を食べて宿に戻ってくると、ドアの前でネズミ男がちょこんと体育座りをしてこっちを見ていた。
詐欺ではなかったと少し嬉しくなったのと、子供のようなその座り方が滑稽だったのとで、思わず声を出して笑ってしまった。
ネズミ男は少し苛ついた表情をしたが、すぐにポケットから茶色い封筒を出して僕によこしてきた。中を見るとどうやら昨日話したラサ行きのチケットが入っているようだ。
約束通りに商品を持って来たネズミ男に成功報酬2千元を手渡そうとすると、ネズミ男は意外なことを言いはじめた。
このチケットを持っているだけではバスに乗れない、そう言うのだ。
お前の服装がダメだ、お前の鞄がダメだ、と続ける。つまり、お前は日本人とバレてしまうからダメだ、と言っているのだ。
そんなことを言うくらいなら初めから説明しろよ、と苛つきはじめた僕にネズミ男は、「今夜8時に迎えに来るからこの部屋にいろ。いいか8時だぞ。必ずいるんだぞ」と一方的に言い残し街に消えて行った。
バスの出発は明日の朝7時。
ネズミ男の話していることの6割ぐらいは理解できなかったが、何か良い解決策でもあるというのだろうか?
(つづく)
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12
薄暗い橙色の裸電球の下で、白いヤモリが壁を横切った。
ネズミ男はさっきよりも輪をかけて不敵な笑みを僕に向け、チケット買いに行くから金をよこせ、と詰め寄ってくる。
最初から濃厚な胡散臭さを感じている僕は、4千元よこせ、と迫ってくるネズミ男をなだめすかし2千元だけその場で渡し、残りはチケット持って来てからだ、として手を打った。
明日また来る、と言い残してネズミ男は街の闇に去って行った。
暗くシンとした部屋で、少し冷静になって考えてみる。
どうやらこれは、2千元やられたということか?
どう考えてもネズミ男がチケットを持って戻ってくるとは思えなくなってきた。こういう手の詐欺なんだろうか。
歯嚙みするほどではないものの、騙されたかもしれないことに少し悔しくなってきて、勉強代勉強代、と唱えながらシーツもない粗末なベッドに潜り込み寝てしまうことにした。
電燈の下、くるりと振り向いたヤモリが不敵に笑ったように見えた。
(つづく) 1234
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