神さまがくれた花 2
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車に乗り込み、さっきバーラットと一緒に来た道をそのまま戻る。
寺はアーメダバードの街中にあるらしい。
「その寺はなにか特別なんですか?」そう尋ねた僕にダダが道すがら説明してくれた。
ダダもジャグネシュももちろんヒンドゥ教だ。ヒンドゥ教には大きいものから小さいものまで、数えきれないほどの宗派(セクト)がある。
ちょうど仏教に禅宗や日蓮宗などの宗派があるのと同じだ。
僕の目から見てヒンドゥ教はヒンドゥ教、なんにも違いは感じられないが、本人たちにとっては大きな違いなのだという。
極端に神様の数が多いヒンドゥ教では、宗派が変われば信仰対象の神さまも変わる。なんせ神さまの数は一説によると3億3千とか33億なんていう数だ。八百万なんてものの数じゃない。
なので一概にヒンドゥといっても、「この宗派は昔からシバが信仰の中心で」とか、「うちとこはずっとマタジという女神がご本尊で」といった具合に、ヒンドゥ教はヒンドゥ教でもちょっと首を突っ込んで見てみると、それぞれだいぶ様子が違うことに気がつく。
ついでに少し話が脱線するが、インドにはいわゆる「神さま挨拶」なるものがある。
インドで挨拶といえば「ナマステ」「ナマスカ」というのが外国人の持つイメージなんだろうし、それはもちろんウソではないのだけれど、実際にインド人の中にまぎれて生活してみると、先のふたつはほとんど耳にしないことに気付く。
インド人同士が出会ってもほとんど「ナマステ」とは言わないのだ。
では挨拶はどうしているのかというと、お互い信仰している神さまの名前を言う。これが神さま挨拶。
たとえばバーラットの家系は代々「アンバジ」という女神を信仰している。
アンバジがどんな神さまかはこの際置いといて、バーラット家は挨拶のときは「ジェイ・アンベイ(Jay Ambey)」と言う。「ジェイ」は敢えて日本語にすると「バンザイ」のようなもので、「アンバジ」という神さまの名に「ジェイ」をつけて、「バンザイ・アンバジ」という神さまを称える挨拶になる。
アンバジがアンベイに変わるのは何か文法的な要素らしい。とにかくバーラット家では朝から晩までこの「ジェイ・アンベイ」でまかり通る。
朝起きて、娘のクルッティや息子のダムルーと顔を合わせても「ジェイ・アンベイ」、初対面の人に紹介されても「ジェイ・アンベイ」、夜更けて寝室に行く前にも「ジェイ・アンベイ」。
バーラット家はアンバジ信仰なのでこの挨拶なのだけれど、もちろん違う神さまを信仰していれば違う挨拶になるわけで、「ジェイ・マタジ」とか「ジェシ・クリシュナ」とか、バリエーションはそれこそ神さまの数だけあるということだ。シバ神のところなんて、「オーム・ナマ・シバーイ」とちょっと特殊な言い方をしたりする。
そして宗派が違う人同士が出会ったときにはどうするか。
これ正解は「両方言う」。
相手がどの神さまを信仰しているか知っていれば、相手の分を言ってから、自分のも言ったり。同時に相手は逆の順番で言っていて、先に相手の分を言うってことは相手に対する敬意を表してるってことなのだろう。
話を戻して、再び車の中。
ダダとジャグネシュ、彼らの挨拶は「ジェイ・スワミナライ」。スワミナライという名の宗派に彼らは属している。神さまはプラムック・スワミという神さまで、御年92歳のおじいちゃん。
そう、、、え?神さまがおじいちゃん?
「それってすごい珍しいことじゃないの?」
そう戸惑った僕にダダはいたずらっ子のような笑顔で、「そうそう、ヒンドゥの中ではすごい珍しい。今からその神さまに会いに行く」
そう言ってウワハハーと楽しそうに声を上げて笑った。
(「神さまがくれた花3」につづく)