神さまがくれた花 4
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法悦?恍惚?
この歓喜。なんとなく心の隅でうらやましい想いもありながら、彼らの心情の根本は想像するしかない。
ヒンドゥ教徒でもないし、特にこれといって特定の宗教を持たずに大人になった僕としては、スワミ神を前にしたときの彼らの目の輝きはとても眩しいのと同時になかなか理解のしづらい種類のものだ。
想像可能な例として、「好きなアイドルや芸能人に出会ったとき」を思い浮かべてみるのだが、比較に出すのすら陳腐な想像なのだろう。なにせ向こうは神さまだ。
先にも書いたようにヒンドゥ教というのは膨大な数の神さまをその中に含んでいて、その数は一説によると3億3千とか33億とか。ヒンドゥ教徒たちにも正確な数はあやふやだし、すべての神さまを把握している人間なんているわけじゃない。
ただこのスワミ神のように、生きた人間がそのまま神格化され、個人であると同時に神さまでもあり、そして教団の指導者でもあるというケースは非常に稀なことらしい。
ヒンドゥの神というのはやはりゴテゴテとした筆致で描かれた、象頭だったり6本腕、肌が青かったり血まみれで骸骨のネックレスを首にかけてたり、そういう異形の者たちが主役なのだ。
言ってみればヒンドゥの神界では「異形」がスタンダード、極彩色のグロさこそが普通という倒錯した世界の住人が神さまなのだ。生きた人間というのは昇り詰めたとしたって、指導者または預言者がせいぜいだろう。
そんなヒンドゥの神界に、ひとり孤高に挑む生身の人間。それがこのスワミ神だ。異形の者たちの中にあって、ひとりだけ「ふつうのおじいちゃん」。
異形の者たちの中にあって、それでもどうやら人気はとても高いみたいだ。この数百人の群衆をこれだけ恍惚とさせているのを見ればそれはわかる。
スワミ神は車いすに載ったまま、ゆっくりと群衆の中を移動する。後ろに弟子が一人ついて車いすを押す。ゆっくりゆっくり信者たちにその顔を見せながら、寺の本堂の方へ向かう。
一日一回、本堂の中で祈りを捧げるのを日課にしているという。そのまま本堂の中へ入って行き、スワミ神が視界から消えたこの群衆たちから、つかの間緊張から解き放たれた深い吐息が漏れる。中には感極まって嗚咽しているおっさんもいたりする。
この感情の大きなうねりに最初から僕は乗りそこね、なんとなく斜めからこの状況を見ることに楽しさを感じている。
30分ほどスワミ神は本堂から出て来ない。その間信者たちはずっと同じところに座り続け、静かな歓喜といった体でおとなしい。
(「神さまがくれた花5」につづく)