Thoughs on Rao’s Newsstand
This is an excerpt of “Thoughs on Rao’s Newsstand” By Motoyuki Shibata
Those who are familiar with the works of …
本文を読むThis is an excerpt of “Thoughs on Rao’s Newsstand” By Motoyuki Shibata
Those who are familiar with the works of …
本文を読むポール・オースターというアメリカ人作家がお好きな方々は、長篇作家オースターが書いたいまのところ唯一の短篇小説「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を思い起こすことだろう。ブルックリンの葉巻店に勤める男が、毎朝同じ時間に、街の同じ角に立ち、写真を撮る。一年に365枚、一日も欠かさずに撮った写真が、アルバムにずらりと並んでいる。「オーギーは時間を撮っているのである。自然の時間、人間の時間、その両方を。世界のちっぽけな一隅にわが身を据え、それをわがものにすべく自分の意志を注ぎ込むことによって。みずから選びとった空間で、見張りに立ちつづけることによって」(オースター『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』新潮文庫 所収)。
石川拓也がやったことも、発想としてはまったく同じ線上に位置している。実際、オースターが石川の仕事から着想を得て「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を書いたとしても、決して驚くにはあたらないだろう(現実には、オースターが「オーギー・レン」を書いたのは1990年なので、これはありえないのだが)。発想が同じというだけでなく、オーギーが世界に対して抱いている敬意と愛情と同種の思いが、石川の写真からもひしひしと伝わってくる。
〜後略〜
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写真集”Rao’s Newsstand”
“Rao’s Newsstand” ebook is …
From 1996 I started to live in New York. And at the same …
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1996年から住んでいたニューヨークで、日本に帰国するまで撮り続けていたものがある。2004年まで続けたので8年間の撮影だ。
ニューススタンド。日本で言えばキオスク。街角に立つ、新聞や雑誌やガムなんかを売っている小さな建物。あの内側からの眺めはどんなだろう?ニューヨークに住み始めたあるときそんな疑問が抑えきれなくなった。
紆余曲折はいったん端折るが、グリニッジビレッジ(ダウンタウンと呼ばれるニューヨークでも最古の町のひとつでもある一角)にある”Rao’s Newsstand”という名の店に頼み込んで入れてもらえることになった。撮影のために入れてもらったのであって、従業員になったわけではない。
1996年の冬に初めて撮影させてもらって以来、気が向くとRao’s Newsstandを訪れ繰り返し撮影させてもらった。
8年分の僕が見たニューヨーク。文字通り老若男女、様々な人種、おそらく世界でも類を見ないほど多様なバックグラウンドを持つ人々。そしてゆっくりと変化していく街の風景と店のディテイル。
撮影したものの中から厳選し、169枚の写真で一冊の本を作った。あとがきには僕が尊敬してやまない翻訳家の柴田元幸さんに、無理を言ってエッセイを書いていただいた。「文筆家ではないんだけどな」と苦笑しながら柴田さんは「解説・のようなもの」という題名の、とても柴田さんらしいエッセイを書いていただいた。
今はまだ電子書籍(ebook)という形態だが、今年はこれを元に印刷を実現する年としたいと思っている。電子書籍も以下のサイトで販売を開始している。ぜひ一度目にしていただきたい。
映画 “Last Mission” 広告ポスター
先日書いた、新宿駅通路を飾ったポスターです。
1枚目がハリウッドから送られてきたケヴィン・コスナーのホンモノポスター。
そしてそれに続く3枚のおじさま方が今回僕が撮影したパロディ・ポスター。
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Last Mission | ラスト・ミッション
愛してはならない
ケビン・コスナー主演の映画「ラスト ミッション」が先週から公開されています。
この映画の、広告用ポスターを縁あって撮影させていただきました。
ケヴィン・コスナーの本物ポスターをパロったポスター3種。
関根勤さん・具志堅用高さん・蛭子能収さんの3氏を撮影しました。
上下の写真は新宿駅地下構内。他に映画館にも展示されます。
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本文を読む春を待ちつつ。 In Yufuin, guarded by Mt. Yufu.
Waiting for spring to …
本文を読む前回書いた写真の整理と同時に、人生5度目となる暗室を作りました。
作れば作るほど暗室作りは上手くなってきていると思うのですが、悲しいかな近い将来確実に失われていくであろう技術ですよね。
そしてこの失われていくということはロマンチックでもノスタルジックでもなく、単に必要とするひとが減ってきているから、というところに少し寂しさを感じます。
おそらく暗室を作るのもこれで最後になるような気もします。
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本文を読むこの正月休みに、今まで撮影してきた写真を大々的に整理しました。
ウェブサイトを根本から作り替える際に、過去のフィルムを一斉にデジタル化する必要に迫られたのです。
カメラを持ったばかりの頃のフィルムから最近までの写真が全て順不同に詰まった箱をひっくり返して、写真の海の中を泳いでいるような1週間を、年始早々過ごしていました。
昨年引っ越しをした際にも感じたことですが、長らく放置していたものを整理することは実際にやってみると想像以上にエネルギーを必要とするもので、まずどこから手をつけようかと考えるだけでも頭からケムリが出てきそうな状況でした。
それでも過去の写真を遡って一気に目を通す、というのは非常におもしろい経験で、一枚の写真を目にしたことがきっかけで、心の奥底に沈殿していたような記憶が次々に蘇る、ということが連続して起こります。
すべての写真はドキュメンタリーだ、という言葉がありますね。
写真というものは、その人間がその瞬間目の前にしていた光景の記録であり、同時に写真に写っていない、フレームの外側の記憶でもあります。
このフレームの外側の記憶というのはなかなか言語化して伝えるにむずかしい部分ではあると思うのですが、撮ってる本人にとっては意外と大事な部分だったりします。
あ、このときこんなこと考えていたんだよなとか、この写真撮ってる自分のうしろでは大勢の人が集まって見物してたな、とか、とうの昔に過ぎ去ってしまってふだんは意識の上に上がってくることのないこの種の記憶が、一枚の写真を見ることで続々とわき上がってきます。
そういった記憶や、もしくはそれにひと続きで繋がっているそのとき持った気持ち、感情なんかは、写真を見る側の人にとってはまったくとらえどころのない部分だったりするのでしょうが、それが伝わらないわけでは決してなく、実はそういった説明不可能な記憶や感情を、説明不可能なまま写真から受け取ってたりもします。
そしてそういった説明不可能なものは言語化できない、もしくは非常にしにくいので、それでも人が説明しようとすると、「なんとなく」みたいな言葉になるわけです。
「きれいなんだけど、なんとなく怖い」「よくわかんない。でもなんとなく好き」
写真を見た人がよく口にするそんな言葉の、なんとなく以降は、言語化できないものを受け取った証と、ぼくは受け止めています。
そして人の心の奥深くに爪痕を残して行くような写真というのは、どんな衝撃スクープや超絶技法のライティングなどよりも、こういった「説明できないよくわからないもの」がはるかに雄弁に語っているものだったりします。
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ず〜っとやろうやろう、と思っていたウェブサイトのリニューアルをしました。覗いてみてください!
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