Posts Tagged with: グジャラート

4月
27

神さまがくれた花 7

posted on 4月 27th 2014 in インド with 0 Comments

7

この日の謁見はこれで終わりのようで、最初に出てきた入り口から神さまは住居に戻って 行った。

神さまの姿が見えなくなると、整然と座っていた群衆たちは思い思いの方向に散り散りになって行った。僕の掌の中には小さな赤い花がひとつ残された。ダダとジャグネシュと、他6,7人が僕の周りに駆け寄ってきた。

「すごいじゃないか!スワミ神から話しかけられるなんて!」

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神さまがくれた花 6


神さまがくれた花 4


神さまがくれた花 5


神さまがくれた花 2


神さまがくれた花 3


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神さまがくれた花 …

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4月
24

神さまがくれた花 5

posted on 4月 24th 2014 in インド with 0 Comments

5
なにか信者たちにしかわからない合図でもあるのだろうか。

なんとなく弛緩していた信者たちがものの数秒で姿勢を正すと、時を同じくして本堂の入り口から再びスワミ神が現れた。

車いすを押され、最初に出てきた出入り口とは逆の方向にゆっくりと向かい、そこに座る信者たちの前に止まった。

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神さまがくれた花 3


神さまがくれた花 4


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神さまがくれた花 …

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4月
23

神さまがくれた花 4

posted on 4月 23rd 2014 in インド with 0 Comments

4

法悦?恍惚?

この歓喜。なんとなく心の隅でうらやましい想いもありながら、彼らの心情の根本は想像するしかない。

ヒンドゥ教徒でもないし、特にこれといって特定の宗教を持たずに大人になった僕としては、スワミ神を前にしたときの彼らの目の輝きはとても眩しいのと同時になかなか理解のしづらい種類のものだ。

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神さまがくれた花 3


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4月
22

神さまがくれた花 3

posted on 4月 22nd 2014 in インド with 0 Comments

3
スワミナライの寺はアーメダバードの市内にあって、驚くほど空港に近かった。

門を入るとすぐ履物を預けるようになっていて、裸足にひんやりとした大理石が心地良い。一歩境内に入ると空気が変わる。外のホコリっぽい混沌とは全く別の時間がそこには流れている。

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神さまがくれた花 1


神さまがくれた花 2

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4月
21

神さまがくれた花 2

posted on 4月 21st 2014 in インド with 0 Comments

アーメダバード

2
車に乗り込み、さっきバーラットと一緒に来た道をそのまま戻る。

寺はアーメダバードの街中にあるらしい。

「その寺はなにか特別なんですか?」そう尋ねた僕にダダが道すがら説明してくれた。

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4月
20

神さまがくれた花 1

posted on 4月 20th 2014 in インド with 0 Comments

1
この広い世の中には、まれに「神さま」と呼ばれるものがいるらしい。

空の上にとか心の中にとかそういうあいまいな話ではない。出会える神さま。生き神。リビング・ゴッド。これはそういう生身の「神さま」に僕が出会った話。

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2月
28

ラメーシュト | ラオ一家の暮らす家

posted on 2月 28th 2014 in インド with 0 Comments

インド人は自分の家屋に名前を付けて住むことが多いそうで、クルッティ・ラオ一家の家(中央)は「ラメーシュト」と命名されています。これは猿の姿をした神様「ハヌマーン」の別名だそう。上が現在の「ラメーシュト」。下はクルッティの結婚式の夜のラメーシュト。どちらも建設中の同じビルの屋上から撮影したもの。そして下が2011年末のラメーシュト。「バストゥ・プジャン」という落成の儀式にお呼ばれして行きました。家の周囲にはまだ何もなく、家も9割まで完成した時点のもの。庭にはまだ芝も植えられておらず。

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2月
01

帰ってきました日本 | Thank you India!

posted on 2月 1st 2014 in インド with 0 Comments

久しぶりに日本に帰ってきました。さぞ寒かろうと覚悟して飛行機に乗ったのですが、成田に降りると思ったほどには寒くない。暖かい日にたまたま当たったみたいです。

2ヶ月のインド滞在もこれで終了。同時に5年近く続けてきた僕の撮影もこれで一区切りです。またインドに行くことは必ずあると思いますが、こうしてひと続きの撮影として通い詰めるということはないだろうと思います。これからしばらくは全力で写真の整理に励みます。

インドってどんなとこ?と日本に帰るとよく聞かれます。でも何度聞かれても、しっくりくる答えはない。結局、インドって国はよくわからない。これが正直に思うところ。一筋縄では理解できない複雑さ。それはつまりインド人の体内に血のように流れるヒンドゥ教を中心とした文化。その文化が根源的に染み付いているからこそ、インド人たちもそれを説明する言葉を持たなかったりします。

インドでは街中を牛が歩いている。

これは誰もが知っていること。そしてその理由を訊ねてみると、ヒンドゥ教では牛は神様の乗り物だから大事にします、とインド人は言う。でもヒンドゥ教の神様の絵を見ていると、神様たちはけっこう様々な動物に乗っている。ニワトリや虎やワニに乗っている神様もいる。

なぜ牛だけが特別扱いなのか?

こんな質問にはインド人たちも答えようがない。なぜ血は赤いのか?という質問と同じくらい体内に綿々と流れて当然のように捉えてきた事柄なのでしょう。そういったことがいちいち、外国人である僕にとってはおもしろい。わからないことがおもしろい。違うことがおもしろい。

一説によるとヒンドゥ教には33億の神様がいるという。八百万どころではないですね。確かに何度来ても来るたびに聞いたことのない神様の名前を耳にする。まだまだわからないことがたくさんある。きっと、いつまでもわからない。そして、わからないことが良いと思う。

近年インドは経済成長著しい、とメディアではよく目にします。それは本当のことでしょう。実際僕が初めてグジャラート州カロールを訪れた5年前から、おびただしい数の住宅や高層マンションが建設され、町が急速に膨張していることがわかります。

ただその変化が全く及んでいない部分ももちろんたくさんあり、そういったギャップがインドの風景をモザイク画のように複雑怪奇な絵にしています。

アウディやフォードなどの高級車に乗りながら、Iphoneで会話を楽しんでいる人間が片眼に見える一方、逆の眼には野宿のような生活で、薪に火を熾し毎日の食事を作っている人間も映ります。アウトカーストやダリット、不可触民などという言葉がときにクローズアップされますが、そういった階層の人でなくとも、インドの農村などに行くとそこでは極端に素朴な生活をしていることも珍しくないのです。

どちらの眼に映るものが本当のインドなんだろうか?なんてそんな質問にはもともと答えがない。見たものの全てがインドであって、複雑怪奇なモザイク画はそのままインドの魅力であるとも言えるのです。

日本に帰ってきたものの、しばらくはそんなモザイク画との取っ組み合いになりそうな気がします。そしてそれもまたおもしろいと思うのです。

書き忘れてましたが一番最初の写真、左はクルッティのおばあちゃんです。

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