Posts in the Category: 旅の記憶
13
翌日、小さな街をぐるりと一周し、遅めの朝食を食べて宿に戻ってくると、ドアの前でネズミ男がちょこんと体育座りをしてこっちを見ていた。
詐欺ではなかったと少し嬉しくなったのと、子供のようなその座り方が滑稽だったのとで、思わず声を出して笑ってしまった。
ネズミ男は少し苛ついた表情をしたが、すぐにポケットから茶色い封筒を出して僕によこしてきた。中を見るとどうやら昨日話したラサ行きのチケットが入っているようだ。
約束通りに商品を持って来たネズミ男に成功報酬2千元を手渡そうとすると、ネズミ男は意外なことを言いはじめた。
このチケットを持っているだけではバスに乗れない、そう言うのだ。
お前の服装がダメだ、お前の鞄がダメだ、と続ける。つまり、お前は日本人とバレてしまうからダメだ、と言っているのだ。
そんなことを言うくらいなら初めから説明しろよ、と苛つきはじめた僕にネズミ男は、「今夜8時に迎えに来るからこの部屋にいろ。いいか8時だぞ。必ずいるんだぞ」と一方的に言い残し街に消えて行った。
バスの出発は明日の朝7時。
ネズミ男の話していることの6割ぐらいは理解できなかったが、何か良い解決策でもあるというのだろうか?
(つづく)
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12
薄暗い橙色の裸電球の下で、白いヤモリが壁を横切った。
ネズミ男はさっきよりも輪をかけて不敵な笑みを僕に向け、チケット買いに行くから金をよこせ、と詰め寄ってくる。
最初から濃厚な胡散臭さを感じている僕は、4千元よこせ、と迫ってくるネズミ男をなだめすかし2千元だけその場で渡し、残りはチケット持って来てからだ、として手を打った。
明日また来る、と言い残してネズミ男は街の闇に去って行った。
暗くシンとした部屋で、少し冷静になって考えてみる。
どうやらこれは、2千元やられたということか?
どう考えてもネズミ男がチケットを持って戻ってくるとは思えなくなってきた。こういう手の詐欺なんだろうか。
歯嚙みするほどではないものの、騙されたかもしれないことに少し悔しくなってきて、勉強代勉強代、と唱えながらシーツもない粗末なベッドに潜り込み寝てしまうことにした。
電燈の下、くるりと振り向いたヤモリが不敵に笑ったように見えた。
(つづく) 1234
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11
ゴルムドに到着したあの夜。
あの男は安宿の僕の部屋をノックした。少しだけ開けたドアの隙間からヌッと出てきたその顔は、マンガのネズミ男にそっくりだった。
これほどネズミ男に似ている顔が現実に存在することに驚いた。濁った両目が同時にギラついているようにも見えて不思議だった。ネズミ男が何やら話しだした。
早口の中国語で内容は全くわからないのだが、シージャン、ラーサといった単語が所々に出て来たので、夜の街へ遊びに行こうというお誘いでないことはすぐに理解した。僕が中国語をちっとも理解しないので、もどかしそうにネズミ男は紙とペンをポケットから取り出し、「西蔵」と書いてから僕の顔を指差した。
西蔵(シージャン)は中国語でチベットのことだ。
お前はチベットに行くのか?とごく単純なことを質問していたのだ。
シー(はい)、と答えると、ネズミ男は少し不敵な笑みを見せ、そのことで話がある、とばかりに身を乗り出した。もう喋って意思の疎通をはかることは諦めたとみえて、達筆でさらさらと紙になにやら書き込んだ。
「汽車」「車票」「中國人」「外國人」。
日本語にすると「バス」「チケット」「中国人」「外国人」となる。ネズミ男は「バス」を指差し、そしてそのまま僕を指差した。「チケット」「中国人」を指差し、続けてネズミ男自身を指差す。「外國人」を指差してからまた僕を指し、そして右手の親指を人差し指と中指2本とこすり合わせた。「お金」を意味するジェスチャーだ。
そこに至ってやっと僕にもネズミ男の意図が分かりはじめていた。つまりネズミ男は僕を中国人専用バスに乗せたがっていたのだ。ネズミ男は淡々と説明を続けた。
曰く。
ラサに行くにはここ(ゴルムド)からバスに乗らなければならない。
バスには外国人用のものと中国人用のものがある。
中国人は外国人バスには乗れない。
外国人は中国人バスには乗れない。
外国人は中国人バスのチケットを買えない。
外国人バスのチケットは2万元、中国人バスのものは2千元。その差10倍—。
10倍、の部分にアンダーラインを引いた後、「だからお前のために私がチケットを買おう。」
要するに外国人である僕が買えない「中国人バスのチケット」をネズミ男が買い、それを持って僕が中国人バスに乗ってラサに行く。ネズミ男は4千元でやってやるという。要するにダフ屋。僕のメリットは言うまでもなくラサ行きのバスに格安で乗れること。
どうだ?どうだ?とネズミ男の強い押しに負け、つい「じゃあそうしよう」と頷いたのが僕の思慮の浅さだと後々気がつくことになる。このときはただ、格安のチケットが買えるならそっちのほうが良いだろう、と「貧乏旅行者」と銘の打たれた算盤を弾いたのだった。
(つづく)
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10
5分ほどの会話の後、相変わらず無表情な公安が、捨て台詞のような雰囲気で一言ピシャリと言い放つと同時に、降りろ、とでも言うかのようにその乗客を外へ促した。緩慢な動作で立ち上がり、バスを降りる乗客。
運転手も呼ばれて外へ出る。公安に何かを言われ、彼もまた緩慢な動きでバスの屋根によじ登り、ひとつの荷物を地面にどさりと投げた。
少しふてくされたような態度でその荷物を拾う乗客。
運転手はそんなことを気にする素振りも見せずバスに戻ってきた。運転席に座り直してからまた窓越しに公安と何かを話し、そしてエンジンをかけアクセルを踏んだ。
乗客ひとりをランタンの光の中に残したまま、バスはまた走りはじめた。
理由はわからない。はっきりしているのは、あの乗客は途中で降ろされたということだ。
まさか彼の目的地があの場所だったということはないだろう。
彼の表情や雰囲気のすべては、彼が不本意に置き去りにされたことを意味していた。
ゴルムドでネズミ男が言っていたことは嘘ではなかった。
「公安がお前を追い返したくなれば、それがラサの100メートル手前だったとしても簡単に追い返せるのだから」
何度も繰り返しネズミ男は言っていた。
「そうならないために、お前はおれのルールを守れ」と。
それが現実のものとして目の前で繰り広げられた今、あといくつあるのかもわからない検問を全て何事もなく通り抜け無事にラサまでたどり着くことが、思っていたよりもはるかに無謀な計画であるように感じられてきた。
ネズミ男はもうひとつ付け足してこうも言っていた。
「失敗した場合、お前ひとりが追い返されることもあるが、バス全体乗客全員がゴルムドに戻される場合もある」
それがうっすらと現実味を帯びてきたこのときになってやっと、この賭けがとてつもなく危険なものだったことに気づいた僕は、やっぱり浅はかで世間知らずだったのだろう。
(つづく) 12345
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9
白い光。
速度を落としつつ、バスはそこに向かって一直線に走っていく。
その光源に、バスのヘッドライトが届くぐらいの近さになってようやく、緑色の制服が目に入った。同時にそこが公安警察の検問所であることを知った。
少し息が早くなる。
バスを停めた運転手は、窓越しに公安のひとりと真面目な顔で話している。使い古したランタンを左手からぶら下げているので、さっきの白い光はこの警官が回していたのだろう。
ランタンの取っ手が揺れるたびに、小さくキィキィと不快な金属音がした。
周囲には10人ほどの公安が、無表情な顔でバスを眺めている。
僕は目立たないように、できるだけゆっくりとコートのポケットから緑色の帽子を手にとり、そっとそれをかぶり、座席に深く身を沈めた。
気持ちの悪い汗をかいているベトついた僕の肌が、さらに不快な熱を帯びる。
昨日の検問と同様に、公安のひとりがバスに乗り込んできた。
無表情で運転手と話し込んでいる。
顔を見せないように、ぐっすり寝ているようなフリをして俯いていても、意識は強く緑色の制服に吸い寄せられていく。
公安と運転手の会話が途切れ、エンジンも止まった車内はまったくの無音になった。外にいる制服組も、車内の乗客もだれひとり口を開かなかった。
緑色の制服は運転手の横に立ったまま、乗客ひとりひとりを仔細に眺めているようだ。時間がとてつもなく長く感じられる。
揺れるランタンだけがキィキィと鳴った。
視線をひと通り車内に這わせた後、公安は無表情なままささやくように、前列に座っていた乗客のひとりに何かを話しかけた。乗客も何事かを答える。
中国語なので2人が何を話しているのか、僕にはさっぱりわからない。ただこのとても静かな会話が少しずつ、不穏な空気を孕みはじめたことには気がついていた。
(つづく)
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8
自業自得。
そんな四字熟語が頭の中をふわふわ漂っていた。
その言葉をあえて向こうへ押しやって、僕はネズミ男とこのおんぼろバスとこの状況に心の中で文句を繰り返していた。
食事も満足にできないし、運転手にも他の乗客にも話しかけることすらできやしない。眠れないから、起きてるのか寝てるのかわからないぐらいヘトヘトだし、暖房が効きすぎて汗でベトベトで気持ち悪い。なのにこの分厚いコートを脱ぐことすらできない。なによりもこのまま進んでラサに到着できる保証もない。
なんだってこんな旅になってしまったんだ?
そしてそんな恨めしい考えがぐるぐると廻った末に、必ずたどり着く着地点。結局僕は、自分で選んでここにいる。
行けるとこまで行くしかないんだろう。
2日目の夕陽が白い山脈の向こうに沈む。
何度かチベット人の村を通り過ぎた。
窓から差し込む太陽光は一日中ジリジリと肌を焼き、影のような黒い疲労を僕に残した。
樹木が全く生えていない、月の表面のような山肌を、バスはずっと走り続けている。道もない山で、頼りは車の轍が示す道しるべ。
運転手は2人で交代しながら進んでいるので、バスは食事休憩以外は停車することもない。
バスが崖の上の細い道を走る。
車一台分の幅しかない道で、対向車が来たら一体どうするのか不思議に思う僕。もちろんそんなことはおかまいなしに進むバス。
ふと崖のはるか底を見ると、裏返しになった白いマイクロバスが目に入った。ここから見える車体の側面は傷だらけで、それはマイクロバスがこの崖を転がり落ちたことを示している。
白い車は夕陽に染まって橙色のように見えた。
それは大きな幸運ゆえか、それともある種の采配でも存在するのか、バスは相当なスピードを出しながらも、一台の対向車に遭うこともなく、そして崖底に転がり落ちるわけでもなく崖を走りきり、平野の入り口に差し掛かっていた。
視界のすべてが暗闇に呑み込まれようとしていたちょうどその時、バスが徐々に速度を落としはじめた。
ふと顔を上げ、フロントガラスの向こうを見ると、点のような白い光がぐるぐると回っている。誰かが前方で、停まれ、と合図を送っていた。
(つづく)
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7
僕はコートのポケットから薄っぺらい雑誌を取り出し、ページに目を落とした。
内容まで薄そうな、中国語の芸能誌。
全く読めないその雑誌を、僕はずっと読むフリを続けていた。その雑誌は周囲から僕を守る盾だった。読むフリをすることで僕は周囲にひとつのサインを送っていた。
僕は中国語はわかる、でも誰も話しかけるなよ、というサインだ。
その雑誌はこのバスに乗り込む直前、ネズミ男が僕に手渡したものだった。
「席に着いたらこれを読むフリをしていろ。周りの乗客とはひと言も話すな。運転手とも話すな。いいな。」ネズミ男の意図を要約すると、そういうことになる。
そして僕はその掟を忠実な下僕のように頑に守っている。
あと何日かかるかもわからないこのバスで、無言の行を貫き通すのはなかなか骨が折れる。しかし僕にはそのバカげた掟を守り通さなければいけない理由があった。
「守らなければラサには到着できない」
ネズミ男にそう告げられていたのだ。
(つづく) 1234
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この話は以下のリンクにまとめています
ラサに行ってもいいですか? | 偽装中国人バスの旅 [前編]
ラサに行ってもいいですか? | …
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ラサに行ってもいいですか? | 偽装中国人バスの旅 [前編]
ラサに行ってもいいですか? | …
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