借りに行くほどでもないんだけどもう一度観たい映画がある
最近では昔のようにビデオをレンタルしに店に行くということがなくなりました。
ネットでの配信サービスでほとんど事足りてしまうように、いつの間にかなっていますよね。
僕の周りではHuluやネットフリックスに相当ハマっているひとの話をよく聞くし、僕自身はアマゾンのプライムビデオに一時期ハマり、我ながら廃人疑惑を持つぐらい観つづけてしまいました。
最近では昔のようにビデオをレンタルしに店に行くということがなくなりました。
ネットでの配信サービスでほとんど事足りてしまうように、いつの間にかなっていますよね。
僕の周りではHuluやネットフリックスに相当ハマっているひとの話をよく聞くし、僕自身はアマゾンのプライムビデオに一時期ハマり、我ながら廃人疑惑を持つぐらい観つづけてしまいました。
この文章は「神さまがくれた花 12」の続きです。
話の最初に戻るには「神さまがくれた花 1」へ。
13
この旅が始まって3日目。インドに着いてから3日目。すなわち、この寺にも3回目の来訪。
やはり朝からダダとジャグネシュは、いそいそとお寺に行く準備を整えているようだ。そしてその頭数に僕も当然入っているようだ。
この文章は「神さまがくれた花 11」の続きです。
話の最初に戻るには「神さまがくれた花 1」へ。
12
この部屋に入ってきてからというもの、会話のほぼ全てがこの僧侶のターンだったわけだが、そのせいもあって僕の集中力に限界が近づいていた。
そろそろ終わりにと僕が思っても、言葉を挟めるタイミングがまるでないのだ。小さな事務室で僕は途方にくれた。
漫画家の水木しげるさんが本日(11/30)、死去されたそうです。
これでまた戦争について語る人がひとり、この世を去ったことに寂しさを感じます。
画像は2011年3月20日のニューヨークタイムス日曜版。つまりあの東日本大震災の直後に水木しげるさんが描いたものです。
この文章は「僕がインドに行ったわけ 1」のつづきです。話の最初に戻るには「僕がインドに行ったわけ 0」から。
2 建設
次にカロールに戻ったのは数ヶ月後。2010年のこと。
前回はプラカーシュに誘われるまま、特に明確な目的もないままの旅で、言ってみれば「ラオ一族親族巡り」とでも呼ぶような旅をした。その後日本に帰ってきてもしばらくは、気持ちがインドから帰って来ない。あのインドの別世界っぷりにやられてしまったようだった。
“After The Rain” はピアニスト内田輝が湯布院の Cafe & Gallery Creeks で演奏し録音したアルバム。6月の録音の際に僕は偶然立会い、これまた偶然ビジュアル面で協力することに、いつの間にかなっていた。
しばらくこのプロジェクトの首謀者であるCreeksの谷川義行氏からの音沙汰はなかったのだが、今日彼が上京した際に久しぶりに会い、僕の撮った写真がジャケットに配されたCDを受け取った。
上の写真は受け取った時にいた、錦糸町の場末感漂う喫茶店で撮影したもの。
僕は千葉市で育った。
最寄駅はJR稲毛駅で、高校を卒業して埼玉で一人暮らしを始めるまでは毎日のように来ていた場所だ。
その後僕は日本を出て旅を続け、そのままアメリカに住み着いてしまったので20代はほとんど稲毛を訪れていない。
ビジネス広告大賞(主催・フジサンケイビジネスアイ)、シリーズ広告部門の銅賞を、撮影を担当した広告がいただきました。撮影してからはずいぶん経つもので、少し懐かしいメンバーで昨夜お祝いの打ち上げに参加させてもらったので記念に。
この文章は「僕がインドに行ったわけ 0」のつづきです。
1 バーラット
まず場所をきちんと書こう。
西インド。デリーとムンバイのちょうど中間ぐらいに、グジャラートという州がある。
もうお隣はパキスタンで、かのガンディーの出身地としても有名だ。この州のもっとも大きな都市はアーメダバードという名の街。アフマダーバードとも表記するが、インド人の発音を聞くとどうしてもアフマダーバードとは聞こえない。
0 プラカーシュ
これまで何度行っただろう。インドのグジャラートをしばしば訪れる。
経緯をなるべく簡単に説明すると、僕はニューヨークに住んでいた20代の頃、NYの街中に立つニューススタンドの内側から写真を撮り続けていた。その8年分の写真は翻訳家である柴田元幸さんの文章とともに “Rao’s Newsstand” という写真集にまとめてウェブサイト“Bus me too. Graphics”にて販売している。これはちょっと宣伝。